20111113 - a song - 27
一枚の絵があり、それは都会から見上げた夜空と星々を描いたもののようにも、あるいはそれは夜空から見下ろした都会の灯りのようにも見える。
別に待たれてる筈はないのだがこの街の夜自体に待たれている気がして表に飛び出していた時期があり、それは今でも雨が降る時のように起こる。絶対に発散させることのできない否応のない力があり、それを使い果たそうといつも頭を使おうとしている。それかその逆か。
流しも綺麗になり生きる希望が沸く。次は風呂場だとか山積する問題はいつも風に吹かれているのだが、そのような埋めるべき余白がいつでもあるのはいいことだと思うことにする。だから空白に取り囲まれている今の暮らしを前向きに捉えることができる。その空白が何の余白かあたしは割り出せばいい。これが何の余白であったかをあたしは割り出さなければならない。そのための時間などはなく他のことをしながらでも。それが現在というものにいつも付きものだったと分かりつつ。
睫毛用のタオルがかなり溜まっているのでそれも手洗いすることにする。他の洗濯も一緒にやってしまうことにする。そうして夕飯前の時間が何となく忙しく過ぎ去っていく。内容は分からないけれども、何かの過程のその途中を過ごす。
洗濯にかなり時間が取られる。
手洗いの洗濯物を脱水にかけ終わったのが九時五十分くらいで、夕飯を食べ終えたのは十時二十分、あともう少ししたら一眠りしなければならない。その後に夜歩きだ。
自分の睫毛が昨晩の映画の字幕を通して語った予言を充足させるためにあたしはそうしようとしている。仕事はなるべく急ぐが、他のことはゆっくりすることに決めている。
あたしがこの後で取る午睡のなかで再び誰かに睫毛を切られる夢を見るとあたしは知っている。そう予言されているわけではなく、ただそうだと分かる。
鼻歌を歌いながら立ち上がり皿を流しに置く。それから自分に鼻歌を歌うという機能が備わっていたことを思い出して動揺する。それはしばしば起こることだが、日常に驚きがあるというのはとてもいい。鼻歌を歌っていない時は単に鼻歌を歌っていないだけだ。譫言なら始終漏らしているし自分のなかで採算は取れている。
睡眠を取る前にシャワーを浴びる。灯りを落としたまま浴槽に踏み込み、シャワーヘッドから落ちる水が睫毛に触れて束の間光るのを見る。
見覚えがあるのではなく、記憶にある何かの光景を見忘れたと感じることはできるのだろうかと考える。それもいつもの話なのだろう。自分が実際に見た物が見忘れたもので、他のすべてのものは見覚えがある。だから実際に見た物しか意味がない場合もあるだろう。あたしはそのようにして自分を納得させる。
タオルを頭に巻き、椅子に座り、ノートパソコンを閉じて、冷めた珈琲を飲む。これから眠ろうというのに珈琲を飲んでいるのだから不注意にも程があるが、これはあたしの習性だ。
睫毛が一本落ちて珈琲カップに落ちるが何も起こらない。
そのような幻影を見ることもきっとあるのだろう。