nobody hurts

November 13, 2011

20111113 - a song - 27

 一枚の絵があり、それは都会から見上げた夜空と星々を描いたもののようにも、あるいはそれは夜空から見下ろした都会の灯りのようにも見える。
 別に待たれてる筈はないのだがこの街の夜自体に待たれている気がして表に飛び出していた時期があり、それは今でも雨が降る時のように起こる。絶対に発散させることのできない否応のない力があり、それを使い果たそうといつも頭を使おうとしている。それかその逆か。
 流しも綺麗になり生きる希望が沸く。次は風呂場だとか山積する問題はいつも風に吹かれているのだが、そのような埋めるべき余白がいつでもあるのはいいことだと思うことにする。だから空白に取り囲まれている今の暮らしを前向きに捉えることができる。その空白が何の余白かあたしは割り出せばいい。これが何の余白であったかをあたしは割り出さなければならない。そのための時間などはなく他のことをしながらでも。それが現在というものにいつも付きものだったと分かりつつ。
 睫毛用のタオルがかなり溜まっているのでそれも手洗いすることにする。他の洗濯も一緒にやってしまうことにする。そうして夕飯前の時間が何となく忙しく過ぎ去っていく。内容は分からないけれども、何かの過程のその途中を過ごす。
 洗濯にかなり時間が取られる。
 手洗いの洗濯物を脱水にかけ終わったのが九時五十分くらいで、夕飯を食べ終えたのは十時二十分、あともう少ししたら一眠りしなければならない。その後に夜歩きだ。
 自分の睫毛が昨晩の映画の字幕を通して語った予言を充足させるためにあたしはそうしようとしている。仕事はなるべく急ぐが、他のことはゆっくりすることに決めている。
 あたしがこの後で取る午睡のなかで再び誰かに睫毛を切られる夢を見るとあたしは知っている。そう予言されているわけではなく、ただそうだと分かる。
 鼻歌を歌いながら立ち上がり皿を流しに置く。それから自分に鼻歌を歌うという機能が備わっていたことを思い出して動揺する。それはしばしば起こることだが、日常に驚きがあるというのはとてもいい。鼻歌を歌っていない時は単に鼻歌を歌っていないだけだ。譫言なら始終漏らしているし自分のなかで採算は取れている。
 睡眠を取る前にシャワーを浴びる。灯りを落としたまま浴槽に踏み込み、シャワーヘッドから落ちる水が睫毛に触れて束の間光るのを見る。
 見覚えがあるのではなく、記憶にある何かの光景を見忘れたと感じることはできるのだろうかと考える。それもいつもの話なのだろう。自分が実際に見た物が見忘れたもので、他のすべてのものは見覚えがある。だから実際に見た物しか意味がない場合もあるだろう。あたしはそのようにして自分を納得させる。
 タオルを頭に巻き、椅子に座り、ノートパソコンを閉じて、冷めた珈琲を飲む。これから眠ろうというのに珈琲を飲んでいるのだから不注意にも程があるが、これはあたしの習性だ。
 睫毛が一本落ちて珈琲カップに落ちるが何も起こらない。
 そのような幻影を見ることもきっとあるのだろう。

November 12, 2011

20111112 - a song - 26

 そして都会の空白をあたしの睫毛が勝手に埋めていく。
 完成していないものをあたしが勝手に完成させていく。
 これがあたしの行き着いた先でありここが出発点だ。
 多分あたしの課題は睫毛の見ているものを取り払うことではなく、睫毛が見ているものを理解することだ。孤独を憎むことは他のすべてを憎むことだ。他の人の孤独を含めて。
 他の人の孤独に対して積極的な感情を向けることはできなくとも、自分にあるものを対処することによりどこかで何かが交わるかもしれない。
 空っぽの理解を示すことをあたしは本当は憎んでいる。知った振りして頷くことをあたしは憎んでいる。何かの同意や反応を示す時、自分が何について頷いているのか分かっていないというのは気味が悪いことだ。だからこの気持ちは一生つきまとうのだと思う。
 その場その場の感情のなかだけではなく、状況の流れの中にも人は生きている。自分が対処できるのは流れの方だけだという気持ちが強くある。それでいてその場その場の感情をしか何となくあたしは受け取れない。そこで矛盾が生じている。それを都会のコントラストと呼びたければ呼んでもいいけど、こちらにとっては感情の死活問題だ。
 そんな思いも流れの中でしか対処できない。
 だからこそ悲観はできないのだけど。
 物語の冒頭近くの始発電車のなか、蛍光灯の明かりに均されていた空の色の微細な変化のように、その変化を時間の大まかな経過のなかで捉えて外の状態の前後を確認する。
 あるいはいつかの自室でカーテンを壁から浮かせていた日光がランプシェードを通した明かりを均そうとしていた時のように、真夜中の自室に灯っていたそのランプの色を忘れまいとする。
 あたしに対処できるのは前者のほうで、あたしが覚えていたいのは後者のほうだ。
 あたしが印象として操作できるのは後者のほうで、あたしが本当に忘れていくのは前者のほうだ。
 単にそのような個人的なコントラストのなかにこの都会があるだけで、都会のコントラストなんていう気障な言い方のなかには殆ど何もない。せいぜいあたしくらいしかない。そしてあたしはその明暗のコントラストを掻き分けて何かを掴もうとして、結局は繁華街へ向かう切符ぐらいしか購うことができない。
 そして辿り着いた街の真ん中でしばらく馬鹿面を下げたあと、また自室に戻る。ひとりの時間が待っている。それでも自分の孤独を理解するには足りない。
 あたしが遠回りにでも他の誰かの孤独を理解しようとするためには、こうして話し続けることくらいしか方法がない。
 午後九時少し前にさっき立ち上がった時に淹れた珈琲をのろのろと飲み終わる。そろそろその日の二食目を用意する時間だ。
 さっき流しに放ったままの皿とフォークとフライパンを洗う。一食目と同じメニューですますことにする。ついでに流しに溜まったコーヒーカップを洗う。

November 11, 2011

20111111 - a song - 25

 日はとっくに落ちていて時に冷蔵庫のモーターが鳴る。まだ仕事の区切りを付けるのには早い。午後四時に起き、いまは午後七時でその日の二食目をとる時間ではなかった。その日の一食目は楽をしたい時はいつもそうする通りB&B形式の軽食で済ませた。皿とフォークとフライパンは流しに放りっぱなしになっている。小食なうえに食事を摂ることを忘れがちなので洗い物はそれほどたまらない。コーヒーカップは無駄に幾つも持っていて、洗い物を怠るので乾燥した珈琲が底にこびりついた陶器や磁器が涸れたステンレスの水槽に溜まる。
 立ち上がるのが面倒な時にはカップを流しに向けて放りたくなる。
 休憩がてら珈琲を淹れることにして、湯が沸くのを待ちながらキッチンが見える位置からこちらを目にやる姿見の中の自分に目をやる。襟首の伸びきった部屋着のTシャツに睫毛が勝手に模様を浮かべている。現実の定義にもよるが超現実的と呼んでもいい。それともそれは超現実的のほうの定義だけで収まるのだろうか。一枚のコインの裏表だがコインは固定されていて、表裏を見るためにはいちいちその回りを歩かなければならない。
 もとより服を着ることには現実に超現実的なものを描き足す用途が多分にある。それを現実と呼んでいるのだから境目など初めからあってないようなものだ。
 あたしが服飾に興味を持ったのもそのような理由もあるのだと思う。誰かが着ている無地のシャツに睫毛があたしの無意識を映し出す。大抵はそこには洋服のパターンと呼んで差し支えのないものが浮かぶ。最近ではそれをスケッチもしなくなったが。
 そして服を着るという行為や、他の身体的な装飾の行為は、あたしの睫毛が外側にあるようなもので、好みと創意次第で大体好きなものを見せることができる。こう水を向ければこれはどこまでも適用することができる話だ。そしてともあれそうすることによって生じるものが現実の範疇におさまるとされていることが重要なのだとあたしは思う。
 湯が沸く。
 あたしはあたしの睫毛の持つ作用についてもう一度考える。
 あたしの睫毛はあたしの無意識を視覚化して現実に重ねる。
 あたしは自分の無意識のその過剰な部分を視覚から除去することができる。
 その括弧付きの現実にしたって何らかの拘束のもと自由に執り行われている。時に応じてある程度は柔軟であることができるという裏返しの拘束により。そうして目に見える形での誰かの妄想に日々触れているが、それについてはこれまでもこれからも実は話し合う暇すらろくにない。
 固定された睫毛の働きを外側に持ち出すような日常の営為により現実の領域を広げることは可能で、あたしは翻訳という作業を通して英文から和文を割り出し、それをほとんど誰にも顧みられることのない片隅で進行させる。何かを付け足す、という言い方は余り正確ではないと思える。
 あたし自身は現実の部分でも全体の一部を不可分に成すものでもなく、部分か全体の一部を不可分に成すなにものかのなかでの範囲を定める定義の組み合わせにより成り立っている。あたしは現実に生えた睫毛だ。
 自分に被さるそのような定義をあたしが憎んでいるということは話した。
 珈琲を机に、あたしは持ち帰る。
 関係の圧力のなかで自分を内側から押し返し自分は自分であると主張している力。
 それを裏返しにしてそっと外側へと向ける。
 今は姿見を見ているからそれが自分に返ってくる。
 姿見のなかのあたしがモニターに視線を戻すのをあたしは興味深げに見ている。
 睫毛を挟んでのことなので、姿見のなかで作業を続ける自分と珈琲を飲みながらそれを見ている自分の関係が逆になることはない。
 それからあたしはモニターに視線を戻す。

November 10, 2011

20111110 - a song - 24

 前にも話した通りあたしは都会を記そうと試みて幾度も挫折している。
 改めて頭を整理してみて都会をあたしに印象づけているのはコントラストだ。何かと何かの対比。
 そこにあるものとそこにないもの。闇と光り。闇夜に浮かぶ星。夜闇を照らす街灯。あるいは星と星空。ビルとビル群、人と人々。糸口の切り口と口を切った糸口の導く道。時間と経過、記憶と時刻、散歩と昼寝、掃除と炊事。都会の暮らしはそのようなコントラストのなかで過ぎていく。それらのコントラストが記憶されその夕方のあたしが住んでいるこの街があたしによりまたもや空想されている。地名や駅名や角の名前では捉えきれないものをあたしは漠然とした一般的なものとして思い浮かべる。多様さを求めているせいで怠惰になっていると言い訳しているが、その怠惰な認識に対して真摯に立ち望もうとしているのだからわれながらふざけていると思う。
 白夜と白昼。複数の何かがいつかどこかで歪んでいるそんなコントラストを持ち出すことも出来る。威張ることではないがあたしのように昼夜逆転した生活を送っているものにとってみれば昼の時間は白夜のようなものだ。そこにもコントラストが生じている。言うまでもなく、あたしがそのように考えているそのせいで。
 あたしはずっと同じ事を考えてきた。
 そのように物事を捉えることを幼稚だとか感傷的だとか非現実的だと一笑に付すことはきっと容易い。あたしはそのような領分を越えて話すことだけをずっと考えてきた。話の内容がそれに付随するものでしかないときもある。それでも新しい領分では新しい技術が育つ。
 今はまだ伝達可能な信号の種類は限られていても十分な複雑さを生むに足るTPOはばらけてそこにある。もし例え単純なオンかオフの信号しか送れなくとも、人が違えば仕組みが違うので、それが独善的な主義主張を助長するものになるとは思えない。もしそれがそうだというのならば、今までにあたしたちが話してきたすべてのことがそうだということになる。調整に必要な細かなカーブを処理しつつ、何かをひとまたぎにする。
 コミュニケーションというお題目を扱うのにそれでは余りに大雑把であるという思いもある。
 けれども翻訳というあたしの職能ひとつとってみても、文章の解釈があり、訳語の選択があり、それが和文でのニュアンスを生み出し、そのニュアンスを留めておくために前後を整理しながら字数で音数を調える。呼吸をあたしは処理している。意味を通して。
 あ・うん、が繋いでしまっているものの得体を知るために同じ言語のなかで翻訳を繰り返し、辞書のなかを何遍も回ってしまっている。なので、あ・うんで済んでいる。辞書が違うことは強みでしかない。希望よりももっと力強いものがあるとあたしはそう思っている。
 都会を記そうというあたしの試みは結局はあるものとないものの違いを話すだけの試みでしかないと思うことがある。
 翻訳の作業に行き詰まり珈琲をすすりながらあたしは部屋を見渡す。
 この部屋にありあたしが理解が及ぶ全てのものは失われたもので、残りはここにないか、あたしがそれについて分かっていないかのどちらかだ。あたしが目にして理解するものごとのひとつひとつをあたしはこれまでもそして今もとりこぼしている。どこかの都会にある部屋の一サンプルとしてその意味合いを理解できる範囲においては、この部屋にある全てのものはあたしの仕事ではなかった。そしてあたしの理解などたかが知れている。そのことに対する理解すら危うい。そしてあたしの誤解は計り知れない。

November 9, 2011

20111109 - a song - 23

 アンナはあたしに原稿を渡す前に確認をしなかったのだろうか。普段アンナから回ってくる仕事は文化の形象にまつわる英文の記事やインタビューの翻訳や、それか対訳付きの年鑑の和文英訳であることが多かった。普段とは仕事の性質が違ったが、ちょうど前の書籍を入稿したばかりで凪の時期だったし、払いも良かったので仕事を断る理由はなかった。
 漠然とした疲れを好むとは言っても、作業中の自分の打鍵音を聞くのが嫌いではないということに気付いた。その夕方は自分がノートパソコンのキーボードを叩くペースに焦点を合わせて活動した。
 十本の指でパーカッションを叩くみたいに鍵盤を打つ。
 画面上の言葉がその音に被さる。実際にはローマ字かな変換を採用しているので、打鍵の数と画面上に現れる文字の数は一致しないのだけれども。
 自分の訳文が気に入らず、デリートキーを押す時に一番趣を感じる。普通の文章を打つ際には打鍵のリズムは散らばってまちまちなのだけど、デリートキーを押すリズムはいつも一定で、あたしは消したい文字数だけデリートキーに触れる。迷路で間違えた道を選んだことに気づき、来た道を猫背でとぼとぼと引き返すみたく、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とそのキーに触れる。
 こんな虫食いの文章が出てきた。
 “And sometime a day will go by quietly at that house (o’) altitude”
 明らかにあたしの睫毛は間違えた単語の選択をしている。
 あたしが見えている通りに訳せば、
 「そしていつか一日はその家で静かに過ぎ去るだろう、おお深遠なるかな」
 になるが、
 実際は、
 “And sometime a day will go by quietly at the house (of) altitude”
 「そしていつか一日が高台にあるその家で静かに過ぎるだろう」
 と言う文章の方が自然だ。
 とは言え”o’”を”of”を省略したものと捉えることもできる。
 すでに自分が失われたものに囲まれて暮らしているとしたら、この目の前にあり、あたしの睫毛により空白を補完されている原稿は一体何なのだろうか。
 その原稿の筆者は単語を削り自分の原稿を途切れ途切れの文脈は持つが未完成である状態に戻した。意味が意味に縛られることがないように。そのように想像してみる。
 そしてあたしの目の前にあるのは完成されていないが故に理解の及ばない都会の姿であるはずなのに、あたしの睫毛がその欠けた部位を補い、既にあたしが知っている意味にあてはめて読んでしまっている。
 睫毛を一本抜いてみる。
 睫毛を抜いた感触はある。
 けれども親指と人差し指のあいだに挟まっているはずの睫毛はそこにない。
 睫毛がそう見せているのだ。
 と諦念半分自嘲半分の気持ちでいたら、腿の上に落ちている睫毛を一本見つけて何だか馬鹿らしくなる。

November 7, 2011

20111108 - a song - 22

 “So tired from the sleepless nights off the city”。
 カーソルの点滅を見ながら思う。
 あたしの心情的にはその空白が”off”で埋まっており、「街から取り外された眠られぬ夜に困憊して」という文面になっている方がよかった。
 というのは、身の回りですでに実現されて自分の理解が及ぶものに関しては、既に自分が取りこぼしたもので、その意味でそれらは既に失われてしまっているものだからだ。あたしのこの考えも含めて。
 そんな漠然とした疲れの方が良かった。
 まあ。
 繰り返すがそのような漠然とした状態であたしは疲れていたかった。
 街から取り外された夜のなかにいたかった。
 だがあたしの睫毛が見せる幻影により虫食いの英文が完成して、そこに"so tired from the sleepless nights (of) the city"という文面が浮かぶ。
 もしあたしがその気ならば文字の消し痕を先の丸まった鉛筆でなぞりその下に何が書かれていたのかを自ら明かすべきだろう。下のインクごとそぎ取らないように修正液を剝がすべきだろう。
 それでも睫毛がそこに見せる単語により完成する文章の意味と、そこに別の単語を入れた時に成り立つ文章の意味の違いを楽しむのも乙だった。
 その対比は現実に対して異なった解釈を与える。
 正確に言えば、現実の樫の絵と、あたしが夢で見た樫の絵に対して。言うまでもなくと言うまでもなく、そのどちらも現実だ。
 樫の描いている絵がどこか違った地平から見た夜空だということは分かっているが、先程見た夢の中ではそれは街の灯りだと諭されあたしもそう信じた。夢のなかあたしはその夜空を夜景だと捉えた。
 「街から取り外された眠られぬ夜」ならばそれは別の星の地表を成す荒野での眠れぬ夜、という意味に取れる。そこで寝転んだらあの星空が見える。
 「街の眠られぬ夜」ならばどこかの街、ひょっとしたらこの街の眠られぬ夜そのものの景色、という意味に取れる。空から見たならばこの街の夜景はどこか違う地平の夜空と同じように見えるのかも知れない。”nights”と複数形だから幾重にもぶれて見えているのかも知れない。
 午後四時半に珈琲を飲みながら考える。そして仕事の続きに取りかかる。
 この後であたしはもう一度夜の街を歩くことになる。だから一仕事終えた後、午後十一時から日付が変わるまであたしは午睡をとることになる。きっとそれから終電に乗り込むのだろう。それは昨晩の映画館であたしの睫毛があたしに教えてくれたことだ。
 「昼寝から目を覚ましたら」
 と女優の台詞をなぞる字幕が言う。
 「散歩に出るわ」
 とあたしの睫毛が字幕をそのまま借りて予言する。昨晩のあたしはそれを信じることにした。その後に出歩く前には昼寝をする暇なんてなかったし、今は一晩中歩いた疲れが残っているので後で小一時間ほど仮眠をとるのは難しくないだろう。

20111107 - a song - 21

 翻訳原稿に含まれる空白の箇所も厳然たる空白であることはなく、修正ペンで消してある箇所もあれば、インク用の消しゴムで消したと思しき箇所もある。
 その痕跡にあたしの睫毛は何の手も加えられていないさらのルーズリーフの紙面を見て、そこに前後と同じ筆跡で英単語が記されているのを幻視する。あたしが無意識的に前後の文脈から意味を補完して読んでいるという可能性もある。睫毛はそれを見えるようにしているだけだ。
 睫毛が映画の字幕を使ってあたしに話しかけてくるように、睫毛が文字を勝手に置き換える。本に連ねられた単語の幾つかを置き換えて、あたしの睫毛があたしに話しかけてくる。その場合は置き換えられた単語の下に何が書かれているかは分かるので特に問題はなかったが、小学生の頃から字幕のついた映画の鑑賞や読書というのはあたしにとってはそのような経験だった。睫毛があたしに見せようとしているものを見る。そして睫毛はあたしの無意識を無意識のうちに反映して見せるものだ。つまりあたしは自分が見たいと思っているものを見る。それは他の人のやっている事と変わらない。
 何も映っていないブラウン管や液晶のモニターで突然本編の放映が始まることがあれば、ノートパソコンのデスクトップに見知らぬフォルダがあり、そのアイコンやそのフォルダに含まれるファイルまで含めて丸ごと幻影で、そこに現実のマウスポインタを合わせてダブルクリックをすると幻影のウィンドウが開き、さらに何回かクリックを繰り返すと幻影の映像ファイルなり幻影のテキストなりが開かれる。
 その原稿自体がそもそも自分の睫毛が生み出した幻影だと疑ってみたが、そのルーズリーフの束をどのように持ち替えて角度を変えて眺めてみてもそれは当たり前に存在し得る英文の翻訳原稿だった。筆記体の解読に難儀していたものの、翻訳は中盤まではつつがなく進んだ。
 途中から空白の箇所に自分の幻影である文字が見え始めることに気がついた。初めの虫食いを埋める文字は”of”と言う単語をつつましやかに成していた。
 何故そこで”of”という単語が選択されたのかは分からない。
 原文は、
 “So tired from the sleepless nights (of) the city.”
 「街の眠られぬ夜に困憊して」
 という文言なのだが、そこは”of”ではなく”on”でも”off”でも意味が通る。
 それが“on”である場合は、訳意は変わらず、
 「街での眠られぬ夜に困憊して」
 になるし、
 “off”である場合は、
 「街から取り外された眠られぬ夜に困憊して」
 と、あたしならそのように訳すだろう。
 そこまで訳したところで自分が全き単語の幻影を訳したことに気付き、息を止めてページをめくってみるとそのような箇所が増えていくことに気付いたところで樫があたしの部屋を訪れ、あたしたちは夜歩きに出掛け、その始発に乗って散歩から帰り、熟睡し、目を覚まし、珈琲を飲みながら、今は「街の眠られぬ夜に困憊して」という昨晩までに辿り着いた訳文に末尾に手を加えようかどうかあたしが考えている証拠に画面上でカーソルが点滅しているところだ。

November 6, 2011

20111106 - a song - 20

 それから泥のように眠る。
 また誰かに睫毛を切り落とされる夢を見る。背景の焦点は甘く、ソフトフォーカスのレンズを通したみたいな室内や屋外の光景が最大限に滲んでいるそのなかにあたしはいる。活気があるという訳でなければ寂寥たる印象もない、ただの郊外の街角。信号機、街路樹、自動車の移動の影、空気の色、光り、瞬き。もしくは壁際にソファ以外は何もない白い壁の部屋。やけにくっきりと見える睫毛の向こう側、そういったものの印象がそこにある。それらは物体の形を留めず、輪郭の曖昧な色の違いにまで還元されている。
 ソファは白く滲み、床のカーペットはグレーに滲み、窓の外の青が滲み、でも実はそれは個々で滲んでそうなったわけではなく、その全体を合わせてあたしが知る室内の光景が滲んだものに似ているのだと分かる。異界が適度に滲んでそれがあたしが知る部屋の印象に偶然似ている。夢の中でそんなことを思う。
 あたしはずっとそれらの焦点の甘い光景のなか浮遊している。
 目の前の睫毛だけがくっきりと見える。夢の中でも律儀に瞬きはしている。夢のなかで瞬きをして、そのあいだだけ目を覚まし、目を瞑ったまま目蓋の裏を見る。
 時折実際に目を覚まして水を飲む。どっちが夢なのか区別がつかない、と自室で起きているあいだのあたしは思う。そうして水を半分コップに残したまま、また眠りに落ちる。次に目を覚ました時にはナイトテーブル代わりの椅子のうえ、水を半分だけ残したコップから一口飲んでまた目を閉じる。
 目を閉じているあいだは夢が続く。ハサミが追いかけてくる。そこに何かがあるのだかないのだか分からない視覚のなかをあたしは走る。あたしを包んでいるのは空気ではなく色。方角といったものはなく、ただ色に呑まれたあたしの爪先が向く方向以外には前も後ろも存在しない。
 たまにその焦点の甘い光景のなか、水の入ったコップがやけにくっきりと現れて、それは夢の中の出来事で、なおかつそれはあたしの睫毛を透かした出来事だと夢の中のあたしは理解しているのだけど、夢の中では睫毛の幻影を所有することが出来ないというルールが働かないのであたしは残った一口を飲んでコップをベッド脇の椅子に戻す。
 走りながら、時に目の端に映る自分の手足も茫漠とした色の動きでしかないことに気付く。だから自分は光景なのだとあたしは思い込む。あたしは誰かに見られている自分を見ているのだと思い込む。だからあたしの体も色にまで還元されているのだと。誰かに見られている自分に与えられた肉体は色の変化や動きでしかなくなっている。あたしはそれを自分の体の内側から見ている。それともそれは外側なのだろうか。実は関係を持たない物同士を結びつけあたしはそれらを自分の内側なり外側なりと呼んでいるだけだ。
 やがて曖昧模糊とした色のバックドロップが少しずつ暗くなっていく。夜空が現れる。手前には甘い焦点の色の狂騒がそのままの明るさで残っている。その夜空はあたしが今朝樫の部屋で見た、制作途中の絵画に描かれたどこかの星の地表から見た星空だと分かる。ぼやけた地平線の上でその夜空の黒と無数の光点だけがはっきりと見える。星雲すら肉眼で捉えられる。樫がイメージしているとあたしが思っている、完全な夜空。それはまるでどこかの街の灯りを上空から眺めているようだ。
 「そう、あの絵のタイトルは『まちのあかり』というんだ」
 と樫の木が教えてくれる。
 その時あたしに追いついたハサミがあたしの睫毛を切り落とす。その後にはあたしの睫毛が残っている。それからあたしは目を覚ます。
 それからベッド脇の椅子のコップに残った一口を飲む。
 ノートパソコンの脇の携帯電話で午後四時であることを確認する。
 水筒に残った珈琲を飲みながら豆を挽いて珈琲を淹れる。
 ページ毎に何カ所か睫毛の幻影により文中の空白が埋められた翻訳原稿をぱらぱらとめくる。

November 5, 2011

20111105 - a song - 19

 二階の自室に戻り、閉じられたノートパソコンの脇に置かれたマグカップに半分残った冷めた珈琲を飲み干し、新鮮な珈琲を淹れて水筒に移し、ストラップを流しの上の収納棚から見つけて水筒をたすき掛けにする。
 天井の灯りは点けず、ナイトテーブル代わりの背もたれのない木製の椅子に置いたランプの光りが、ベージュの囲いにダークシアンの紗を重ねたシェードを透かし、カーテンに閉ざされた夜明け前の部屋を照らしている。北風を通わす冬の機械とはまた違った機構がそこで働いている。照らされることによって働く個人的な視覚の機械。
 壁際の机、その上のノートパソコン、その左脇に置かれたフェルト糸で綴じられたルーズリーフ、ノートパソコンを挟んだその逆側には冷めた珈琲を湛えたマグカップが置いてあった。日の出はまだだったけれども、ぼんやりとした光りがカーテンを透かして染み込んできて、それはシェードを通した白熱灯の光りに均されることがない。これから時間をかけて外からの光りが部屋を満たす色を均していくあたしはその前に灯りをおとす。
 四階の樫の部屋の鍵は開いている。樫はもう屋上だろうか。樫の部屋はあたしの暮らす部屋と同じ間取りだが、樫は畳の床をそのまま使っている。スニーカーを持ってベランダへと歩き出す前、玄関口から部屋を見渡した時、大きなキャンパスが壁に立てかけられていることに気付いた。高さ二メートル半、横幅四メートル程の帆布は全面黒で塗りつぶされている。
 初めに見えたのはキャンバス上で瞬く光りの点だった。それは樫の制作途中の絵だと心得ていたから、その光点はあたしの睫毛が生み出した幻影だと分かった。星空が描かれているようだが、見慣れた星座は一つもなかった。
 前にも話した通りあたしの睫毛の幻影の内側でも外側でも樫の絵に描かれていることは変わらない。だから樫は実際にどこかの星空や星雲を描いている途中なのだろう。黒い背景に打たれた白い点と同じ数だけの光点が睫毛を挟んでゆっくりと瞬いている。
 ベランダに出て、窓の横の壁に立てかけられているハシゴを登る。たすき掛けにした水筒が脇腹に当たる。
 樫は先に屋上に出ていた。午前六時より二十分前、氷である炎が東の空で溶けて群青の容器の底に貯まる。眺望というほどのものはなかったが、程よく何にも遮られずに東の空を望むことが出来たし、歩道に被さるクスノキの下を行くたまの人影や生き物の影が見えた。見上げれば晴れた空が被さっている。まだ空に見える星に目をやりながら話す。
 部屋にあった絵だけど。
 「別の星の地表から見上げた夜空をイメージして描いてるんだ」
 見ながらではないけど、と付け加える。
 見ながらだと言われてもあたしは困ってしまうだろうけど。
 あたしは水筒にコーヒーだけ入れて、マグカップを持ってくるのを忘れたことに気付く。樫の木がビールの缶を振り子みたく振って、コーヒーは要らないと伝える。
 心でしかないどこかへ、体を連れて。
 水筒の蓋から湯気立つ珈琲を飲みながら思いついた今晩の続きをあたしは口に出す。
 いいかげんそのバリエーションは、
 「止めなよ」と今度は樫の木があたしに向かって言う。
 「止めない」と今度はあたしが答える。

November 4, 2011

20111104 - a song - 18

 北風と夜明け前の街灯の明かりと視線により編まれた冬の機械の、小さな河川に掛かる橋の建物の途切れた風景が夜をその長い腕で寝かしつけている。町並みは路地の交わりで漉した夜気を掬い取り、街灯の明かりだけがその有り様を覚えていて、冬の機械がそれを再現している。冬の機械はただ北風を通すだけの機構で、北風は南に向かう。
 そんなに都合よく世界が終わっているはずもなく、街灯の明かりだけではなくこのあたしもその有り様をよく覚えていて、午前四時過ぎで、足と目の裏が痛む。冬の機械が霧散する。誰にも観測されていない姿の都会が見たいと願いながら、それは誰かと誰かの思い出話の合わさる場所にしか存在しないと考えつく。樫に話そうかと思ったが、言葉を省いた。だからそれはあたしが辛うじて見た都会の断面のひとつでしかない。
 何かについて話すために何かを省略したり増幅しようと試みた結果ある程度均された感受のなかにあたしはいて、言葉はその景色に凹凸を与える。時の景色にそぐう破片を選んで地を固め天が降るのを待つ。あたしと樫は公営住宅の最寄りの駅までの切符を買う。
 ホームでもまだ飲んでいる。見知りのバーを渡り歩いたいつかの晩の夜歩きの時よりも幾らか酔っ払っていた。
 「今日何日」
 とどちらかが聞いて前夜と二三日ずれた日付をどちらかが答える。部屋を出る時に漂っていた珈琲の匂いを思い出す。屋上に出る前に珈琲を飲んでしまおう。ウィスキーを垂らしてもいいし、また豆を挽いてもいい。その時間のために出来ることを選ぶ。そしてその時間が何のためになっているかなんて忘れてしまうにかぎる。それで省かれる手間が余計なものかどうかは分からなくとも。
 何台も電車がやってきては去る。この駅に止まりもしない。大勢の乗客を乗せてただ通過していく。あるいは何台もの電車がこの駅に止まり、人の出入りがあり、再びこの駅を発車していく。睫毛を勝手に働かせて、時間の早さを無視して目の前で進行する昼夜の風景を目の中で過ごす。
 始発がプラットホームに滑り込む。途中で寄り道をしながら一晩かけて歩いた距離を鉄道は数十分で消化する。たまに何かの儀式みたく朝の電車に乗り込む必要がある。それまでの過程がある。足の裏が痛む。
 電車を乗り換えたあと、シートの端の手すりにもたれかかりながら屋上から見える景色のことをあたしは半分眠りながら考えている。ちゃんと目を覚ますことが出来ればその光景の中に正しく辿り着くことが出来ると、半分眠りながら考えていたことを覚えている。
 駅から公営住宅に歩くあいだには空は白み始めている。だがまだ夜は明けていない。あたしと樫は少し早足で歩いた。足下が多少ふらつき、様々な方向へと早足で歩くことになった。それでもちゃんと十五分のラップライムで目的地には辿り着いた。その十五分に焦点を合わせて、まだ動けることを確認した。

November 3, 2011

20111103 - a song - 17

 午前三時半の冬の機械が薄く作動している。街灯に照らされて透明なそれが分かる。空気と色彩とほんのちょっとの繊細な音によって編まれる冬の機械のその骨組み。ただ風がそこを渡れるように組み立てられる街の仕組み。大気と同じだけの重さで絶対なのに一カ所一カ所は危うい偶然で成り立っている。あるいはあたしは物事をそのような単位でしか切り取れない。
 街灯の光に街路樹の葉の一枚一枚が照らされているのが見えてそれは表か裏かで違う色を返し、その少し下では信号のネオンがたまに色を変え、灰色の車道の黒い艶がそのバランスを支えている。そのような視線の動きが冬の機械を編む。人々の視線によって完成する季節限定の機械。透明なそれだから、特に合意が得られることもなく、ひとびとは北風を探し、中空や揺れる枝を見る。あたしの睫毛に光りが絡まるみたいに、冬の透明の機械に北風の細い糸が絡まっていく。空気が小さく渦を巻いている。それが幾つもある。北風を大気から呼び込んでその場の状況に応じて透明な光りの糸を紡ぐ冬の機械。質感の機械。
 一瞬一瞬では止まっていて、時間を通して見れば動いている。それは嘘で、それが静止しているように見える一瞬をあたしは捉えられずにいる。これからもそれが出来るようになるとは思えない。それはただ呼吸のサイクル毎に注意時間を定めるのと同じことで、呼気から数えるか吸気から数えるかできっと少しずつ時間の印象は異なっていく。そのような瞬間を重ねていく。
 都会の一瞬一瞬をそのように足の裏で捉えていく。夜気に涼む。季節が花を添える。彩りが時刻を添える。そうして身の回りの品々に呼吸が戻っていく。街灯に馴れる夜の景色みたいに。
 ビールを何本か飲んで既に酔っ払う。自動販売機を見つける毎に缶珈琲を買うのと同じペースで、コンビニでビールを買っている。空き缶はコンビニ前に置かれたゴミ箱に分別して捨てる。あるいは途中で通り過ぎた自動販売機の隣に置かれたプラスチックの箱に放る。始発に乗る時くらいは酔っ払っていたいという人情が働いたか、結局は飲んでいる。夜を過ぎた格好で朝を通り過ぎるために。季節と同じように儀礼的に、夜の習性のなかあたしは腕時計を持たずに。
 酔うと睫毛の幻影は弱まる。この街の歩道に挟まれた運河として車道を沈めていた水は排水孔からさらに沈み、この都会の地下を水浸しにする。それすらも睫毛の働きで、つまりはあたしは自分自身をさらに巧妙に騙しているだけだ。あたしの足の裏、地面を隔てた場所で盛大に水しぶきが上がっている。あたしはその分の処理を余分に行っている。呼吸の隙間をふと見つめるのと同じように、ひとつのペースのなかに含まれるペースを穏やかに見つめる。空は雲一つない空、月の全部が見えていてその半分だけが光っている、それみたいに。

November 2, 2011

20111102 - a song - 16

 繁華街まで辿り着き始発を待つ。何駅か巡るうちに、だいたいそのようなペースを見つけた。
 駅ビルのシャッターを脇に通り過ぎて切符だけ買ってホームで延々と始発を待つ時間、そこに焦点を合わせて散歩を続けた。あたしが自分に対して設定したそのような目まぐるしさの程度と、自動販売機の前を通りかかるベースが重なり、あたしは何故か目を覚ましていた。缶珈琲を消費しながらその晩がどれだけ遠いのかを測ろうとした。それを言い表すための言葉を探そうとした。まだ自分が理解していないことを正確に言い表すための言葉を先にあたしは探そうとしていた。
 どこの店にも立ち寄らなかった。途中のコンビニでそれぞれ一本ビールを買っただけだ。あとは脇道をかわし近道をかわし、ただ愚直に歩き続けた。その晩に起こっている騒ぎの全てを見逃すことをいつも惜しいと思う。それから我に返る。解けている靴紐を結び直す。何度か転びそうになり、壁に手をつき、手の平がブロック塀の石の粗い粒子に触れる。その感触をこの街のものだと同定する。アスファルトにまでその感覚を伸ばす。そのようにして路面の様子を掴む。足下はだいぶおろそかになる。
 その晩はあたしと樫は歩くことによってこの街を描写する方法を得た。足の裏をいつも場所の名前がノックしていた。だいたいの時はそのことさえ殆ど意識されなかった。場所の名前と記憶があまり上手に結びつかない。どこも似たようなもんなのだと思う。だからあたしたちが歩いていたその晩も結局はどこも似たようなもんだったのだと思う。あたしたちは目の前の風景を更新し続けた。時速四キロメートルでのろのろと地表すれすれを滑空した。そのあいだに何度か足をつき、肢体のバランスを整え、その次もまた一歩と呼んだ。
 疲れている時には睫毛の活動は活発になりがちだ。幻影のソフトドリンクの自動販売機が配置され、その取りそろえも充分妥当なものと思える。まるであたしが何を買いたいか知っているかのように。あたしはまだ自分が何を買いたいか知らないのに。街の一角がまるごと消え失せてそこにはない横道の幻影が見えるということも希にだがある。そこに実際にある街の寝姿がちゃんと見えて、それが幻影であることが分かる。
 そこにない駅が見えてそこにない線路が敷かれて、そこにない乗客を乗せたそこにない電車がまだそこにない場所とここを同時に目指して走っていく。
 あたしが翻訳を任された原稿にはそこにはない単語があたしの幻影として平然と浮かんでいる。
 午前三時半にはあと一駅分も歩けば繁華街に辿り着くというところまで来ていた。特に何をするというあてもなかったが、駅近くの終夜営業のカフェにでも入ってアイスコーヒーでも頼もうかと思っていた。だがそこに辿りつくための最後の直線を歩き始めたあたりからビールの割合が珈琲よりも多くなり始める。

November 1, 2011

20111101 - a song - 15

 散歩中に耳が利かなくなることがある。それはいつもイヤホンの空白の内側に逃げ込んでいる弊害なのだろうけど、鼓膜を叩く空気の振動に現実感がなくそこから震動を取り払った真っさらな空気の感触ばかりを計り直している。聞こえなくなった耳はそれでも喧噪を感じてはいて、周囲で音が鳴っているということをあたしに伝えてくれる。雑踏の中ならば賑わっているということを教えてくれる。あたしの反応のなさがそれに対して応答している。
 「ふうん」
 ここでしかないどこかへ、などと言われて落ち着かぬだけの気分になったので、そのように自分の考えをただ言葉にしてみる。言葉の上だと何かがねじれて、何かがふと空白に触れるように感じることがある。そして、その領域は空白とは呼ばれるべきではないのだろうなと思う。いつかの晩にあたしが樫に話していた通り、それは自らを語ることによって自分を埋めていく余白をただ定めるだけの作業なのだろうなと思う。理解されることによって自らを塗りつぶすように動く空白の、真冬の機械。
 あたしも樫にならって缶珈琲を一本買う。スタジャンを着て開栓していない無糖の缶珈琲を持つあたしが街灯の真下からすこしずれた所に立っている。真夜中の街道で不意に現れた坂道、坂道はその下の歩道から少し角度をずらして垂直に切り立ち、ガードレールから垂れる蔦がその坂の存在を何となく隠している。あたしがその坂道の傾斜が始まったばかりの地点に立つ背後には夜とガードレールと蔦がバランスよく配置されている。もし三者的に見たそのような瞬間だけが記憶に残っているのだとしたらその前後にある何と何を何が繋ぐのだろうか。ファッション雑誌の撮影みたく現場の設営があり、電源が確保され、照明が設置され、露出が調整され、シャッターが押されて画像データが記録される。そして何故かモデルを演じているあたしが立っている場面だけがそこにある場合、その前後で想像される光景は何なのだろうか。誌面に収められた写真のなかでそのまま過ぎていく日常、もしくは撮影クルーの撤収シーン、どちらが現実と地続きなのだろうか。
 単調な街道を抜け商店街を経てある駅前に出る。改札はシャッターで閉ざされ、駅前のロータリーに辛うじて一台止まっているタクシーの運転手は仮眠中だ。いつのまにかそうして駅から駅を辿ることがその夜の習慣になったらしい。駅名を表示する照明の明るさだけを意識しながら歩いた。同時に他の喧しさや眩しさに見とれながら、ただきりがないということだけが歴然としていて、現にそこに開いている店の名前ひとつとってみても敢えて立ち入ろうなんて気に到底ならない、個人的な規模の時刻。
 環状線沿いの繁華街に向けて歩きながら途中で他の路線の駅に立ち寄って、それなりの距離を歩く。トレーナー一枚で出歩いていたのが、今はその上にスタジャンを羽織り、それでも寒いと感じている。主に屋内で過ごす身だが、年を追う毎に冬は長くなる。去年の冬はもっと厳しかったと自分を慰めることのないよう、ただそれだけのために。
 それとは関係無しにその夜の空気は冷たかった。
 「そこではないどこかへ」
 「そこでもないどこかへ」
 時折何かを思いつく代わりに言葉が交わされる。

October 31, 2011

20111031 - a song - 14

 珍しく午前中から活動していたその日のその晩、再び仕事に取りかかり原稿に妙なところがあることに気付いた後に、あたしは樫と再び秋の構内に降り立つ運びとなる。部屋を出た時に珈琲がまだ湯気を立てていたのを覚えている。珈琲の匂いがしていたのを覚えている。それをまるで季節の匂いみたいに感じていたことを覚えている。長い一日になりそうだと思ったことを覚えている。
 あたしのものでも樫のものでもそれともどこかの映画の中で見た物でも構わない。どれか好きな夜の場面を思い浮かべてくれればいい。そんな夜だ。実際には環状線に辿り着いたところで歩き始めることに決めた。都会の繁華のなかを移動したかったわけではない。本当にただの意味のない夜歩き。あらゆるものにうんざりしながら、言葉を失うものの前では言葉を失う。そのことを言い表す言葉を獲得するのがその時でないことを分かっているから。それは何に対してもそうなのだけど。そのような領分もある。先に言葉があるものになんて大した意味はないと多分二人とも思っていたから。狂った体内時計が正確な一秒を計り続け、狂った時計はともかく正確な一秒を共有している。その背後のメカニズムについては分からない。少なくとも今はそのように感じる。そうでなかった時は思い出せない。
 珈琲の匂いが夜の部屋を満たしていた。
 「トリック・オア・トリート」に対して、
 「トリック・オア・トリート」と返して部屋に通した。
 その晩は樫はビールを持たず、あたしの冷蔵庫を漁り始めた。缶ビールをみつけてあたしの分のプルリングもひいてくれる。あたしは原稿の妙な箇所に気付き動揺し始めていたところだったから、有り難く自分のビールを受け取った。いつもと同じようにおざなりに乾杯するふりだけする。二三口飲む。
 夜歩きに出たそうだったので、あたしがスタジャンを手に取るとビールの缶を持ったまま樫は玄関口へと移動し始めた。
 どのみちあたしも自分の部屋にいられる気がしなかった。外気が必要だった。
 電車から降りて環状線の高架下を歩きながら、通過していく電車をやり過ごす。線路に沿って歩き、時に住宅地に分け入りながら、その晩あたしと樫はずっと黙ったまま歩いていた。
 沈黙に耐えかねて「ここではないどこかへ」とあたしは言ってみる。
 「ここでしかないどこかへ」と樫の木が何かの合図を待っていたかのように答えて返す。
 そんな時にあたしは樫の木をぶん殴りたくなる。こいつはあたしの世界を終わらない広がりのなかに閉じ込めようとしている。そのように感じるから。あたしはどこかに行けると思っていた。けれどもそのどこかというのが別にどこでもいいことになる。そう考えるとあたしは解き放たれたままどこかに幽閉された気持ちになる。終わらなさの裾野、慣性だけで生々しい。
 あたしは部屋に立ちこめていた珈琲の匂いを思い出していた。樫の木は自動販売機の横を通りかかるたびにいつものように缶珈琲を一本ずつ買い、飲み終わった缶をその次の自動販売機の脇にあるゴミ箱に捨てる。終わらない珈琲が終わらない缶に詰められて終わらないゴミ箱が並んでいる。だからかどうかは分からないがその晩は樫は民家の屋根に向かって空き缶を投げ始める。
 「止めなよ」とあたしは言う。
 「止めない」と樫は答える。
 でもその場では止めるのだ。そこが樫の面白いところだと思う。

October 30, 2011

20111030 - a song - 13

 自分の睫毛と会話をした後、結局交通に入り込み環状線まで上る。いつもイヤホンで耳を塞いでいるので、街中でイヤホンを外すと自分を包んでいる音の響きに一瞬ぼうっとなる。感想した空気を通して伝わる環境音が駅の改札を出て地下街に入ろうとするところであたしを一度洗い流す。その残響音のなかを突き進む生き残ったあたしがいて、気付けばいつも通り物事の原音のなかを歩いている。つまり普通通りに街を歩いている。世界が起きていない振りをしながら。
 地下街の出入り口の一つから地下中二階の高さで横に延びる廊下を渡り、その端で地上に出る階段を上る。新宿で、ただの場所で、名前を失った景色と雑踏のなかを再びあたしは歩き出す。頭の中に入っている地図は利用する。自分がいるのはさらの都会だと捉える。その中でざわめきが止まず、何も理解できないまま全部が過ぎ去っていく。
 そりゃそうだけど。と視界に字幕が入る。
 でもここにこうして残っているものね。
 とあたしは答えて返す。
 そのような思考を行った後、ラーメンを食べ、知ってる道を歩く。時にビルの階層のなかにいて、階から階を移動している時間があり、地上階に出て、冷気に身を縮める。
 睫毛に冷気が絡みつくせいで冬の歯車が見えるのだろうか。街灯から街灯を渡る風が伝っている冬の機械。冬のあいだこの街を動かしている機械。そのようなものが見えるのは睫毛がもたらす錯覚だろうか。あたしは判定を下しかねている。
 それも儀式的なことだと気づく。慣習は更新されていくけれども、冬の機械はそのぶん入り組んで問題もなく作動している。重力の強さ、というよりは大気の重さとして完全に。儀式的というか慣例でないのならば季節とは呼ばれないだろう。だから秋が秋であることに深い意味などないのだと自分を説得する。
 それでも秋という言葉には秋という意味があり、あたしはそれを愚鈍に心ゆくまで楽しんでいる。あるものとないものがそこで出会っていて、あたしはそれをしばし引き留めるためにだけ存在する。あるものとないものの違いとして。
 夏に近い秋よりは冬に近い秋が好きで、一枚余分に来て一枚分寒いくらいの気温が好きだ。裏返しのトレーナーをTシャツに重ねて着ているだけなので少し寒いその日を少し好きだ。その残りの意味を探していて、何度も裏返り、着地点は秋で、まだ出発もしてないのにと思う。
 それが一歩一歩の出来事で、睫毛がその大半をキャンセルしている。
 キャンセルできなかった分が幻影としてこぼれている。
 あたしはそのような思考で自分に問いかけるが、返答の字幕は浮かばない。
 何はともあれキャンセルしきれているということだろう。
 だから一度ついたその溜め息をつかなかったことにする。そうして意味を背後から取り戻す。というのは溜め息をついたという事実を認めることにより、感情に時間を渡らしてそれが迂回できたと自分に伝える。そのあいだにあたしは過去と現在を頭の中で精確に行き来している。そうして自分の感情を見渡す。
 そのあいだにあたしは交通に入り込み自室に戻っている。冷気として薄く浮かぶ冬の機械に運ばれて街灯から街灯へ夜道を頼りに家路を辿る。公営住宅の階段を上り始めた時点であたしの散歩は終わっている。静かな気持ちで階段を上る。二階の自室の扉を開く。その部屋はあたしが出入りする時にだけ目を覚ます。あとは灯りを点けても眠ったままの部屋のなかであたしはポリエチレン製のトートバッグを床に置いて伸びをする。

October 29, 2011

20111029 - a song - 12

 自分がいる時だけこの部屋は都会の一部でなくなり、自分のいない時のこの部屋は都会の一部となる。あたしはこの部屋をこの部屋以外のどこかで見たことがある。フローリングの床は自分で八畳分の畳を剝がし細長い板材を敷き詰めて作った。剝がした畳を積み重ねたものにタオルケットとクロスを巻いたものをマットレスとしている。その上に分厚い布団のマットを敷いてベッドと呼んでいる。あたしはこの部屋が定まった形を持っていることを何故か感謝している。その何故かというのをあたしはこの物語のなかで順を追って遠回りに説明しようとしている。
 その日未明の散歩中に考えていた通りあたしはこれまであたしが見聞きしてきたもののパッチワークだ。あたしは精神や記憶を物質のようなものとして考えてきた。それは自分の体の一部ではなく、外に存在し触ろうと思えば触れるものだと考えていた。あたしが睫毛が見せる幻影に手を触れることができたという事実がそれを助長した。事実としてあたしの記憶はあたしの体の形をしてそこにある。
 記憶でもなんでもいいからともかく目の前の仕事に取りかかるという記憶にすることにして机に向かう。手書きの英文の読解は内容の複雑さもさることながらそれが筆記体で書かれているということが一番の難関となった。読解よりも解読に時間が掛かった。自分の訳文を見てみて意味が通じているようないないような日本語がそこにあるのだが、それは原文がそのような文章なのだろうと考えて翻訳を進める。この時点ではまだその原稿の妙な箇所には気付いていない。
 いつもと同じようにあたしはノートパソコンに向かいその半分の時間は動きのなかで眠っている。残りは静止のなかで起きている。仕事は順調に進む。途中で果物を剥いて食べた。いつもと同じだ。でもそのいつもと同じという感情をいつ感じ始めたのかは覚えていないが、それはまだ知らない感情やまだ見聞きしたことのない出来事から成っている。
 あたしは空白によりそのように取り扱われている。そのような自分を扱うことによってあたしは空白に触れようとしている。
 午睡から目を覚ます。夕食にしても良い時間だが空腹感がない。映画でも見に行こうかと身支度を調える。冷気の心地よい夜で、景色の質感で冬が近いことが分かった。街灯の下、街は商業の軒を連ねながら歩道を挟んで街路樹が建ち並び、そこに茂る葉が車道を覆っている。風が電灯から電灯を渡る。冬にはその仕組みの骨子が浮かんでいそうな気がする。乾燥した空気を透かして鮮明になった歩道からの景色が、車道に被さる街路樹とそれを内側から照らす街灯の列になる。
 駅近くの映画館で次に上映が開始される映画のチケットを買う。
 睫毛は映画の字幕を使って話しかけてくる。睫毛の言葉と映画の字幕としてスクリーンに映写されているものの区別は付けることができるし、その両方を同時に見ることができる。
 「久しぶりね。元気そう」
 と睫毛は字幕を使ってあたしに話しかけてくる。
 その時には実際には、
 「2009年シアトルで起きた
  あの事件については」
 と映写されている。
 次の、
 「話したいことが沢山ある」
 は冒頭の俳優のナレーションの字幕をそのまま使う。
 そのようにしてあたしは自分の睫毛と会話をする。

October 28, 2011

20111028 - a song - 11

 目を閉じて時の流れに焦点を合わせたままあたしはシーツの上に曳き止められ、眠りに落ちる。
 また誰かに睫毛を切り落とされる夢を見ながら、あたしはそれを夢だと気付いている。ステンレス製の銀のプレインなハサミのその艶がその夢の中、あたしの睫毛の見せる幻影として見えている。誰かがそれを持つことさえせずにハサミを開いたり閉じたりしている。夢のなかであたしは気付いている。その誰かがあたしの睫毛を切り終えた時に、ハサミも、そしてそのハサミを開閉していた誰かもあたしの睫毛と共にすでにそこから姿を消していることを。
 そして目を覚まし目蓋を閉ざしたまま考える。今日は昨日の続き。昨日がいつだったかは覚えていない。昨日がいつだったかを思い出すためにあたしは目を開き、上半身を起こす。毛布を下半身に絡めたまましばらく呼吸を意識して行う。自分が息を吸っているのだか吐いているのだかその都度判断して呼気と吸気を数え呼吸のサイクルが定まるまで待つ。
 同じ作業を目蓋に対しても行う。
 目蓋を上げたり下ろしたりしてその都度自分が目を閉じているのか開いているのか確認する。そのようにして何度か瞬きを繰り返し自分が目蓋が上がっている時に自分の目が開いていることを確認する。というのもあたしの厄介な睫毛のせいで目を開いているときにも目蓋の裏の景色が見えることがあるのだ。
 他人と共有可能な現実と自分にしか見えないものの区別は付くとは話した通りだが、起き抜けには現実と幻影を見分けられずに幻影としてそこに浮かんでいる歯ブラシやコップを手に取ってしまうことがある。すると部屋が水で満たされていて、その水槽のなかにいるあたしはコップでその水の一部をすくい取り、口に運ぶ。しかし目には見えて手で触れることはできてもそれを所有することは出来ないというルールが働いて、コップですくわれた分の水が唇に触れた瞬間に部屋中で水位が下がりどこかからどこかへ向けて飛沫が上がり、盛大な音を立てて一秒先一秒先へと床から水が沈んでいく。幻影だと分かりながらも目を丸くしてその様子を見ているあたしの左手にはまだ水の残ったグラス、右手には歯ブラシが握られているが、それらも程なくして消える。
 自分が目を開いていることを確認する時、あたしはまだベッドで半身を起こした姿勢のままだ。
 昼夜の別がなくなり時刻だけが残るとか抜かす割りにはあたしの部屋には時計がない。カーテンの少し壁から浮いた部分から差し込む日射しの色と角度でおおよそ午前十一時から正午のあいだだろうと見当をつける。まだ寝ぼけているあたしはその陽の光がカーテンを壁から浮かせているのだろうと信じて疑わない。後からノートパソコンを開き時刻を確認して、それが予測した時間よりも遅ければあたしは自分が長くベッドに居すぎたと思うだろうし、予測した時間よりも早ければベッドから抜け出るのが早かったと飲み下す。
 でもそれもベッドから抜け出てコーヒーを淹れたあとの話だ。特に予定がないと分かっている日に、起きてすぐに時刻を確認する必要はない。あたしは特に予定がなかったかどうか思い出そうとする。その時点ではまだベッドで半身を起こしたままだ。起きてからまだ三分も経っていない。
 トレーナーが脱ぎ捨てられた格好のまま床に突っ伏している。普段は裏返しに着ているグレーのトレーナーだ。粗い斜線で見た目の色が表現されそうなグレーの表面が所々で折れ曲がり、少し崩れた砂の城を思わせるシルエットで床から立ち上がっている。昨晩というかその日の未明に散歩していたことを思い出す。そこに焦点を合わせる。
 そのトレーナーが腰回りの裾があたしの腰の高さまで持ち上がり、上半身だけ着衣した薄っぺらい透明人間が、広げた両手を床についてストレッチをする。襟首が内側へと巻き込まれ始め、肩口から胸元そして腹、両腕、手首の裾がその後に続く。裏返ったトレーナーが丁度あたしの肩の高さで空中にぶら下がる。それが水平に回転する途中で夕立が刺繍された襟元のタグが見える。それだけ見せてからそれは裏返しのまま再び地面に崩れ落ちる。あたしが上着の類、袖を通すものを脱ぐときには例外も完膚もなくそれらは裏返しになる。そして幻影が終わり現実のトレーナーが今目の前で裏返しになって地面に落ちているということはあたしはそれを昨晩着ていなかったのだ。洗濯したあとにベランダで干し取り込んだあと、焦げ茶色の衣装棚にしまう前に落としてしまったのだろう。
 昨日の散歩に着て行ったスタジャンはあたしの下半身に絡まる毛布に埋もれている。両脚を毛布のしたで伸ばしてそれを皺のついたジャンパーを引き出す。それをベッドの脇に置いて、立ち上がり珈琲を淹れる。
 でもそれもシャワーを浴び、睫毛を拭ってからの話だ。
 トレーナーを着て散歩から戻ったばかりみたいな振りをしながらノートパソコンのスペースキーを叩いて電気を通す。
 スクリーンの右上の時計によれば十時少し過ぎ。
 すると無糖の珈琲が少し甘く感じられる。

October 27, 2011

20111027 - a song - 10

 仕事の合間を縫って深夜、公営住宅の周囲を散歩する。
 二十七にもなり定職につかずただ街をふらついている。
 フリーランスの翻訳家として生計を立てつつ、機会がある毎に様々な場所に顔を出す。音楽がかかり、酒が振る舞われ、誰かが踊っている。あるいは仕事で回ってきた英語の文章とそれが紹介している作品の画像と顔を付き合わせる。そこから誰かと何を共有しているのかは分からないまま、ただ何かを共有したのだという甘やかな記憶だけが漠然と連ねられていく。
 いつしか夜と昼の区別がなくなり時刻だけが存在するようになる。個人的な伝説や神話に自分の記憶の一部分を預ける。あたし自身が誰かの人生の記憶の一部分を担っているということもあるかも知れない。それでも自分が何を受け持っているのかは分からず、人の気持ちを理解することよりも文化的な形象を理解することの方が大事だと思い込むことがありそれが過ちであったと後になり気付く。感受と消費の境目が曖昧になる。
 誰かがそこにいるということの方が本当は重要なのに、作り手も受け手も既成の文化の枠に人格を乗っ取られる。みんながみんなそうでないということも分かっている。理解され、理解するための手続きとして、細分化を続ける表現の枠組みの重要さは理解しているつもりだ。達成の目印として、符号を符号として伝えるものとして、ともかくはある一つの文化と認識されているものの大切さも分かる。その中で培われた伝統は後進の世代に受け継がれ、時代や社会のなかで新たな化学反応を生み出す。特に何者でもないあたしだってそうした様々な文化的な形象のパッチワークとして存在している。そうして存在しているのは楽で心地よいが、それに対する憎悪が同時に育つ。だから都会でのあたしのつつましやかな活動の根源には自分が見聞きして感じて来たものに対する愛着と憎悪の両方がある。
 あたしはそのような枠組みから自由になりたいとずっと思ってきた。
 それでも共感を求めてしまう。
 それがあたしの抱える矛盾で、それが唯一のものでなければ、最大のものでもない。
 あたしや樫が都会にこだわるのはそのような理由からではないかと思う。動きを動きとして捉え、それを動きのなかで動きとして表現できれば膠着は避けられる。
 公営住宅の周囲はさほど賑わっているわけではなく、郊外と呼んでも差し障りはない。最寄りの駅まで歩いて十五分、そこから街の環状線に辿り着くまで三十分弱。自転車を持っているが、駅までは歩くことのほうが好きだ。自転車に乗っていると睫毛の作り出す幻影が何故か活発なものとなる。そのせいで通行人やガードレールやブロック塀に衝突したりすることはないが、余分な神経を使う。
 深夜に一人歩きしている時には人混みという言葉に焦点を合わせることができないから、夜風だとかに焦点を合わせることになる。あるいは自分の足音だとか鼓動だとか衣擦れだとか呼吸だとか瞬きだとか。あるいは地球の自転だとか公転だとか焦点を合わせる。そんなことが出来るのは夜の一人歩きの時だけだ。そうしてゆったりと歩く。
 けれども結局あたしの焦点はいつでもあたしの睫毛に合わさっていることをあたしは知っている。そしてあたしの睫毛はあたしの考えていることを考え、あたしは睫毛があたしに見せることを選んでいるものを見ている。だからあたしは本当は物凄い近眼で、ずっと遠くに実際にありずっと遠くに見えているものすら結局は自分の頭の中にあるのだと知っている。時代だとか文化だとか環境だとかから自由になりたいと威勢よく言ってみたところで、あたしが逃れることのできない個人的な檻はいつでも目の前にある。
 午前四時過ぎに自室に戻り、まださほど疲れも感じないまま仕事を放ってベッドに体を投げ出し目を閉じる。
 そうした折りにだけ、運が良ければ、時の流れに焦点を合わせることができる。

October 26, 2011

20111026 - a song - 9

 そのような生活のなかで言葉なり意味なりを憎む理由を見つけながらも、あたしは持ち帰った原稿の翻訳を日々続ける。
 趣味で英詩を書くものの、いわゆるクリエイティヴライティングはあたしの専門ではない。けれどもあたしの頭のどこかで自分は都会を新しく書く方法を探しているのだと感じる。都会が都会的なものとしてすでにそこに実際に存在している以上それは達成不可能な目標ではないような気がする。
 目の前にすでに建物や景色として実現され、どうにか自分の理解が及ぶと思えるものは、自分がとりこぼしたものだと思うことにしている。それは自分の仕事ではなかったのだと。
 公営住宅に越して来てからたぶん四年、そこで自分が立ち止まり重複して体験したように感じる時間を足した朧気な五六年間をあたしはそのような作業に従事しながら過ごしてきた。
 人間の意識も自然現象の一つであることを認めるのならば、文明が自然のカテゴリーから除外されるのはどこか自然ではないとあたしは感じる。都会を都会の秩序から切り離して考えたいが、例えあたしが草原や密林のなかで暮らしていても従わざるを得ないルールは存在するだろう。知りつつ、あたしと樫は慣習に染まっていない都会の見え方を探そうと徒労を重ねている。
 あたしや樫は一日のある時間の切れ端のなかで立ち止まりながらきっとそのような徒労をまたもう一度とまたもう一度と積み重ねてきた。目の前のものが名前を失い、そのついでに束の間消え去ろうとする自分自身のその立ちくらみを保存する。
 あたしが人混みという言葉に自分を預けてクルーズコントロールで街を歩き、自分の外を流れていく雑踏を自分の一部として捉える時のように。
 それをあたしは主に英語から日本語に翻訳するという作業のなか言葉を選んでいくという行為に落とし込み、樫は絵筆を選ぶところから始めて絵を描くという行為に含まれる諸々の手順の一つ一つを定めていく上で留意する点として保とうとしている。そうして自分の人生の感想に染められていない体験の痕跡を自身の人生の文脈の内側で再現しようと試みる。あたしの訳語がやはり前後の文脈に従わなければならないのと同じだ。
 自分がいない時にこの街はどう見えているのか。
 例えそれが掴めたとしても、それだけでは街を新しく描写するためには足りない。
 そこで立ち止まらず、自分を除いたこの街を自分からさらに差し引いて、そこに残っているものがそれ自身を語り、それ自身を埋めてしまうための余白。そんな場所にいたいねと樫と言葉を交わす。そんな余白はどうにかそれ自身を語るための言葉に塗りつぶされ、余白ではなくなってしまうのだけど。
 「結局はそれが俺たちの理解できる範囲だからな」
 フローリングの床に胡座をかき、半分ばかりビールの残った瓶の口をつまみ膝の上で振りながら樫の木が言う。あたしは樫の木の言い分に頷くことにより樫の木がまだ言ってないことに対して頷いている。樫の木がそんなことを言うのは、それが限界ではないと樫の木が何故か容易く知っていると分かるから。
 その向こう側に対してあたしは頷いている。
 樫の木は瓶の口近くをつまみ、瓶を振り子みたく回し続ける。瓶のなかで泳いでいるビールの重みが分かる。
 あたしの理解や先入観や幻想の肩代わりをする睫毛があたしにそのように伝えている。
 そして、先に述べた通り、いま目の前にいる樫の木に関して少しでも理解が及ぶと感じる部分に関しては、あたしがあたしを構築するうえで既にとりこぼしてしまったものだと思うことにしている。特に誰ということもないあたしの代わりに既にそこにあるものとして。
 あたしはあたし自身についても同じように考える。あたしはすでにここで実現されていると感じるあたしを自分が既にとりこぼしたものとして認める。ここにあると分かるすべてのものは既に失われたものだ。そしてあたしはその余白が自分自身を語るに任せる。
 樫と午前三時くらいまでそんな話をして、そのまま九時過ぎまで集中して翻訳を進める。それからシャワーを浴び、頭にタオルを巻いたまま睫毛用のタオルで睫毛を拭う。
 窓の外、午前十時の町並みが広がる。二階の窓だから眺めはよくない。あたしの理解の及ばないものが何かを語りかけようとしている。あたしはさきほど樫に対してそうしたように、それらに対してただ頷いて返す。
 そしてあたしはひとつ確かな瞬きをする。
 あたしの睫毛があたしに対して頷くように。

October 25, 2011

20111025 - a song - 8

 それから知り合いのアンナという編集者からその原稿を受け取るまでの数時間は濁流だった。誰かの笑い声が書き文字の効果音として見えた。見たことのない生物がその場の状況からひねり出され、電車のなかを漂い、窓の外に出ようとして鏡につかえて透明に戻った。車内で見かける中吊り広告内の雑誌名や商標やロゴはすべて別のものに置き換わっていた。駅の名前が別のものに置き換わるということはなかった。
 ロングカーディガンの右ポケットからケーブルが延び途中で二本に分かれた先でイヤホンがあたしの両耳に挿さっている。スニーカーの踵は踏んだままだ。
 電車を降り人混みの中を歩き始める。焦点を変えて目まぐるしさを自分で定め、体の動きをそれに合わせて調節する。例えば漠然と人混みという言葉に焦点を合わせて、その目まぐるしさを意識して動く。頭のなかに地図が入っているのならば駅の構内や駅近くの繁華街を人混みにのって自分の歩みをクルーズコントロールするのは簡単だ。人を避ける注意力と道を譲る方向の選択、なるだけスムースに、それだけを即興で行いながら、人の残した動線の記憶の内側から夜の街を見て、あたしの人生の感想や文脈の外側でこれは一体どんなものだろうと考える。
 「これなんだけど」
 あたしが辿り着いた先でアンナは言う。A4サイズのルーズリーフの表裏にびっしりと英文が筆記体で手書きされている。百枚くらいだろうと目算をつける。確認して中味を封筒に戻す。
 なるべく早くでお願いね。
 「これですか」
 と後で自室に戻ったあたしは意味もなく口にしてみる。それから夜間の作業に備えて珈琲を淹れる。
 原稿を受け取った後、アンナが机ひとつ分の空間を間借りしている事務所で珈琲を飲みながらしばらく話し込む。あたしはアンナの編成する書籍制作チームで翻訳や英語での渉外を担当している。
 アンナはこの前のパターン集の入稿の打ち上げで訪れたバーで出会った男と付き合い始めたと言う。
 それからそれぞれ自分の主観について一通りのろけた後あたしはオフィスを後にする。
 帰り道、コンビニでモンブランを買う。部屋に戻り一息ついて珈琲豆を切らしていることに気付き自転車に乗って最寄りのスーパーまで出掛ける。午後十一時の閉店にぎりぎり間に合った。再度自室に戻り、鞄から原稿の入った封筒を取り出し一言呟いてから珈琲を淹れ、ノートパソコンは閉じたままようやくモンブランにありつく。
 公営住宅に越して来て何回目の秋だろうかと考える。五回目、いや六回目、もし重複しているのならどの年を重複して数えているのだろうか。あたしが二十四になったあの年だろうか。それともあたしが二十五になったあの年だろうか。それともそこにはなかった年を勝手に付け加えているだけだろうか。あるいはそんなに深刻な内実はなく、単に表に浮かび上がる数字が違っているだけか。
 深夜過ぎに仕事を始めた三十分後に樫が現れて一杯やろうと言い出す。
 あたしの部屋は二階で樫の部屋は四階だ。瓶ビールを二本、指に挟んでいる。仕事を切り上げてきたのだろう。手にインクがついたままだ。
 あたしがここに越してきてから何回目の秋だっけね。
 唐突にそう問いかけてみる。
 「それ去年も言ってたよ」
 と言いつつ部屋のなかに入ってくる。瓶を一本受け取り、乾杯の振りをする。
 じゃあ去年は何度目の秋だったんだろうね。
 さあね。
 それから何度目の秋か定まらないのは、どれか特定の年を無意識的に重複して数えているせいか、それとも表に現れる数字が違うせいなのか、ということを話してみた。重複して数えているのは何故か。それとも一日単位で重複して数えている日が幾つも散らばって毎年あり、それが溜まって一年分の余分な感慨となり目の前でわだかまったような気持ちになっているのか。それとも一日や一週間の特定の時間を重複して噛みしめる習慣をいつしかあたしたちは身につけ、そんな時間がたまりにたまって一年分になっているとか。
 「だから人がどうやって今という時間を共有しているのかが分からない」
 「共有されているのは今っていう時間じゃなくて言葉の方だろ」
 樫が答える。
 「そのせいで言葉を嫌いになることはない?」

October 24, 2011

20111024 - a song - 7

 プールなどで泳ぐ時にはこの現象は起きない。景色みたいにその匂いが漂っている塩素に光りの契機が失われる。風呂ではたまに湯が光る。
 浴槽につかる。膝を曲げ、腰を沈め、湯が背筋を辿り首元を包む。シャンプーとコンディショナーの赤い容器、石鹸、スポンジ、それを乗っけているアルミ製の金網のカゴが吸盤で壁のタイルに固定されている。顎まで浸かる。風呂の電灯は消えている。
 少し深めに息を吸い込んで頬、耳たぶ、耳、鼻、と沈めていく。左目を閉じて、少し顔を傾け、左の睫毛だけを湯に漬ける。ほとんど溺れそうな状態だが、右目は薄く開いたまま保つ。すると浴槽の水に電気が通い、あたしの睫毛の一本一本の毛先から幾つもの色で様々な形の反応が起きるのが見える。ネオン、インク、青白い電流、それぞれ染み渡り、早回しの記憶みたく場面が展開する。塗装の落ちた窓枠やポストや地面の高さから見上げた信号や電線やそれと同じ色で所々で折れ曲がる細い枝やソファの焦げ茶の布地や毛羽立ったカーペットやリコリスのプリントされたカーテンの裾がトゥーンシェーディングめいた質感で重なって入り混じり、角度を変えながら明滅する。光りの色で時間帯やら電球の種類などが分かる。早回しの風景はいちどきに数々の空気感を呼び込み、現実感を強めるだか弱めるだかして、湯船の底に膝を立てて座りながら、あたしはあたしの両足が自分の体重を支えているみたいに緊張しているのを感じる。湯が光り湯気を仄かにライトアップする。シャワーカーテンが光りと蒸気に濡れている。眉毛から下のほんの小さな要塞をあたしは湯の表面と右目のあいだに保つ。鼻から漏れた息は泡の抵抗に受け止められる。あんまり長い時間その体勢を取っているのも辛いし、息もそんなに長くは持たない。
 その後は湯を半分抜いて三十分ばかり半身浴をして体中から汗を流す。
 そうしてようやく眠気が訪れる。
 髪の毛をタオルで拭いながら、コップの水を飲み干す。すでに八時を回っている。
 睫毛を拭く用のタオルを鏡台の引き出しから取り出す。
 ハンカチや余った薄い布の切れ端を四センチメートル四方に切りそれを二つ折りにして三つの辺を縫う。長辺四センチ短辺二センチの長方形の布。小人用のタオルみたいな形をしたそれを百枚くらい作り、漆器調の小箱のなかに畳んで重ねてある。使い終わった睫毛用のタオルは台所の隅に用意したザルに放り込んで、九十枚くらい溜まったところでまとめて衣服用の洗剤で手洗いし、机に並べて乾かす。その時にはノートパソコンとA4サイズのノートと何冊かの本をベッドに逃がさなければならない。コーヒーカップは手で持つ。そのあいだは仕事が出来ない、と言い訳も出来ないのでベッドで伸ばした足の上にノートパソコンを開いて作業をする。
 左右それぞれ一枚ずつタオルを使う。
 そのまま眠らずにいたいのだが眠気が勝つ。眠くなればなるほど眠りたくなくなる。三時頃に目を覚まし起き抜けにそんなことを思う。
 メールをチェックする。友人が借りている事務所まで翻訳原稿を受け取りにいかなければならない、とその朝に思い出し損ねた予定を確認する。ノートパソコンの脇にはアクティブスピーカーが原風景みたく置かれている。トーストを一枚、目玉焼きを一つ、フライパンで温めた缶詰入りの豆を一枚の皿に盛る。楽をしたい時にはいつもそのメニューで済ます。ベーコンとトマトは切らしている。そうこうしているうちに五時になる。街に灯りがともり始める。常套句だけをかいつまんで話している。
 髪の毛をまとめ白のYシャツに青のロングカーディガンを重ねる。下はよれよれのジーンズだが気にしない。キャンパス地のスニーカーの踵をつぶして履く。
 蒸す夜でカーディガンが少し暑かった。駅まで十五分歩く間、湿気と寝不足のせいなのか睫毛も上手く機能していなかった。比較的穏やかな自分の視界のなかをあたしは歩いた。そのせいで注意散漫になり、駅の券売機の横に何故か設えられた鏡にあたしの姿が映らないことを確かめるまでそれが幻影だと言うことに気が付かなかった。

October 23, 2011

20111023 - a song - 6

 情報が表層を均したうえで内容を分類しひとつの時代に於ける感情の置き場所を定めた。薄暗い時代を経て遂に何も見えなくなりあれこれ感情を指示する既存の言葉からようやく抜け出しつつあるとひとり感じる。あたしは翻訳作業をそのようなところに留意しながら進める。英文和訳が主で和文英訳の仕事が回ってくるときもある。趣味で英詩を書くが、それを誰かに見せたことはない。
 幻影に慣れるためには感情を抑えることを覚えなければならなかった。睫毛が伸びたのは六歳の頃だったが、自分にしか見えていないものにいちいち反応していたらまともな社会生活は送れないと子供ながらに理解していたのだろう。教室の机の引き出しから砂が溢れ、黒板に太陽が映り、五月なのに蝉の鳴き声がして、清く正しく机に向かっている総勢三十名の生徒に囲まれ、教室の出入り口からは笹の葉が飛び出し、背後のロッカーにはまた別の三十名の生徒が入っていて、弁当箱の中に弁当箱が入っているのが分かり、つまり弁当箱が弁当箱に入っているだけだと分かった。
 そこに実際にあったものは教室と机と黒板と総勢三十名だけの小学生と五月のそよ風と出入り口とロッカーと、弁当箱のなかに入っていない弁当箱だけだった。そのようにいつも区別をつけた。訓練というほどの訓練は要らなかった。六歳児の常識がなんぼのもんじゃと思いはするが、その感覚と共に育ったのだからそのような心がけを定めた幼い自分にそれとはなしに感謝している。
 結局始発で帰った朝は公営住宅の屋上に上り日の出を見るという儀式を行うことができなかった。その時期の日の出は六時少し前で、少し余裕を持って公営住宅に帰りつくことはできたのだが、樫はそのまま自分の部屋に戻ってしまった。自室に戻ったあたしは髪の毛を下ろし三つ編みを解いて、トレーナーを脱ぎ捨てTシャツのままベッドに横になる。締切の近い案件はなかったか考える振りをしたがその分の記憶はメールの受信フォルダに預けたままだ。
 部屋の壁がゆっくりと伸縮して呼吸しているのが分かる。テーブルの足には階下から届いた蔦が絡みついて上り、八時間以上は放っておかれたままであろう珈琲にありつこうとしている。長方形の木片が敷き詰められたの床にはところどころ雑草が生えていて、それはいつものことで、寝起きの運動代わりに草むしりをすることもある。床にはファッション雑誌や音楽誌、あとは漫画本が積まれている。焦げ茶色のタンスにはあたしの持つ衣装がそれらがそうされるべく整頓されて収納されている。
 例えば古着屋で見つけた黒いシャツスカート、逆さになった桜ん坊がプリントされていて1960年代後半のBIBAの製品ぽく見えるがボタンの形が違う。自分で肩パッドをいれてシルエットをそれらしく調整した。あるいはフリマで買った、あたしにはその名前を言い当てることの出来ない花の白いシルエットのパターンが乗った赤褐色のナイロンのスモック。その袖に、縦に三つボタンを縫い付けた。
 あたしの睫毛は人々が着る服にそこにはないプリントを重ねる。中学生くらいの頃からその模様をスケッチブックに写し始めた。睫毛はあたしの経験や視覚への刺激の強度を視覚化する。あたしの睫毛は時代により成形され、あたしの視界をアレンジする。自分の無意識によりアレンジされたものを自分で受け取りながら、現実は現実で噛みしめる。あたしはこの街で始終感電しているような状態が好きだった。沸騰でも延焼でもなく単なる感電。
 この街の視覚や空気が生み出す空電を拾いあたしの睫毛は働いていた。
 眠れないままあたしは体を起こす。透明のコップに水を注ぐ。
 たまにこんなことをして遊ぶ。
 そのコップに睫毛を一本だけ抜いて浮かべる。
 睫毛は水面の真ん中あたりでくるくると回転し、そこから色が溶けて落ちる。
 ネオンのように、インクのように、稲光のように、様々な色や模様が水を透明なまま染める。水を内側から照らす。コップを形作るガラスに光りが反射する。その光りがコップを覗き込むあたしの肌を染める。部屋のあちこちにその微かな染みが浮かび、その模様は中空を移動するように壁面をなぞる。
 あたしは、それがコップの水面に浮かぶあたしの睫毛の実際の働きなのか、それともあたしの睫毛があたしに見せている幻影なのか分からないふりをする。

October 22, 2011

20111022 - a song - 5

 樫は独立自営のイラストレーターで自分でこまめに営業に出て取ってきた小さな仕事の一つ一つを丁寧にこなした。樫は動きを描くのが上手かった。要素の一つ一つを大事に描き、それを切り取られた変化の画像の一瞬の配置のなかに収める方法を知っていた。駅前の風景、夜のドライヴ、ひとりきりの部屋で目を閉じている誰かがその目蓋の裏で見ている光景、どこまでも続く都会のサバービア、その悪夢が悪夢ではないことを樫は知っていた。ディテイルとパース、その双方から双方を活かす術を心得ていた。一枚のキャンパスを一枚のキャンパスとして固定している視点から沸き上がった移ろいは樫の絵を見ている人を包む時の流れと同期して、いつでもそこに残った。
 樫の絵にはいつも樫自身の姿が描かれていた。人混みに含まれるひとりとして、夜の雑踏の形をした秋の空気の裾を持ち上げてどこかのバーへの階段を下りる後ろ姿として、自分の見ている風景の複雑さに途方に暮れているカメラとして、あるいは大抵はどこか寂しそうな顔をした少年として、樫はどこか隅の方から絵全体を見ていた。樫が本当に寂しいのかどうか尋ねたことはなかった。
 だって結局それは泣き言だから。
 「なあ睫毛、そんなの当たり前だろ」
 と樫は言うだろう。そしてあたしはそれが当たり前だと分かりつつも、それがどう当たり前なのか大概の時は実感できないだろう。
 「孤独を憎むことは全てを憎むことだものね」
 他の人の孤独も含めて。だからたぶん人は自分の孤独を憎んではならない。何が何でも。それしか理解の及ぶ道はない。それで実際に足りるということは決してないとわかりつつも。あたしはその残りを言葉にはしないのだけど。
 孤独を憎むことは全てを憎むことだものね。樫に応えそう話してみてそれは少なくとも論理的には多分正しいのだろうなとは思うが、言葉の意味ばかりが早まり実感が遅れる。理屈が先行し実感が伴わない。もしくは言葉のほうに実感が宿りあたしの心には何かが残らない。あたしはそれを自分のものにする方法を知らない。自分が勝手な何かを言えている気がするが、誰がそれを言っているのかが分からない。だから目の前で話している誰かの言葉を聞いて頷きながらも、誰がそれを言っているのか分からない。
 とっくに諦めていたから。そして自分が何を諦めたのかもう理解していないから。それなのにまた始めようとしているから。自分が諦めたことすら忘れてしまったものを信じることによって。無を認めることによりそれは無でなくなる。人間はそんな力を否応なしに持つ。服飾関係の仕事に就くというかつてのあたしの夢のように。あたしが翻訳作業の合間を見て暇を持て余す以外の時間を見つけた時、今でもまっ白なキャンパスに冬物のスケッチを引くことがあるように。
 樫と樫の描いた絵、あたしが先に見たのは絵の方だった。
 あたしは始めはそれを自分の睫毛が見せている幻影だと思った。自分にだけ見えている幻影と、現実として多分他の人々と何らかの意味で共有可能なものの区別がつくということは先に話した通りだ。何故かあたしは樫の描いた絵を自分の幻影として認識した。あたしはそれを誰かが時間と労力を費やし現実の土壌で描いたものだとは思えなかった。あたしはそれを睫毛を透かして見た幻影だと思った。
 そして突然視界に割り込んできた樫の木がその絵をあたしの幻影の外側にそのままの形で持ち出した時には心底驚いた。樫の肌を被う樫の木の木理は樫の内側で成長しているかのように変化しながら樫の頬をなぞり鼻筋を辿り額で渦を巻き髪の毛に逃れた。ぼさぼさの髪の毛は一本一本が繊細な枝で出来ていて、風もないのに何かにそよいでいた。
 それからゆっくりと樫はあたしの幻影から逃れて人間の皮膚を取り戻し体温を帯びた頬が赤くなっていくのを見た。あたしは温度感知器が人間を見るようにそれを見ながら、それは睫毛が見せている幻影ではなく本当にそこに誰かがいるのだと気付いた。
 それまで家族を除けばそんなことが起こることはなかった。樫は現実のものとしてそこにあり、樫の木としてあたしの幻影に割り込みその中で樫としての人格を保っていた。あたしの幻影と現実世界を行き来する樫だけれども絵を描く時は必ず人間の姿でいた。それでいてあたしが幻影として見ている物を描くのだった。そして樫はそれをあたしの外側へと持ち出す。それは現実の絵画となりどこかのギャラリーに展示されたり誰かの部屋を飾る。それはあたしの幻影に属するものだからあたしがそれを所有することは出来ない。でも樫があたしに見せてくれた絵を心から取り出し、一枚一枚を心ゆくまで眺めることはいつでもできる。だから樫はあたしが見る幻影をあたしの外で作り、それをあたしの外に持ち出す。そんなことくらいは出来て当たり前だという風に。あたしもそれを当たり前だと思うし当たり前だとは思いたくない。

October 21, 2011

20111021 - a song - 4

 六歳の春、上睫毛の長さがおよそ倍になった。
 長くなったその睫毛を透かすとそれまでに見えなかったものが見えるようになった。突然の環境の変化に戸惑いはしたが六歳の子供だ。すぐに順応した。詳しい理屈などあるのかどうかも分からない。幻影なんてそのようなものだと子供心に納得し、今でもそのままだ。
 それ以来あたしが見てきたものの大部分が幻影で、現実にあるものはその幻影を成り立たせるための書き割りとなった。
 それで特に支障があるというわけでなし、豊かだと思える内面生活を送っているので人生に不満はない。
 小学校からの帰り道に見たことのない花が咲いているのを見た。指で触れてその花弁のざらざらとした感触を確かめることはできるが、摘んでポケットにいれ家に帰り家族に見せる頃にはそれはごく有り触れたクローバーに変わっている。あたしはそのクローバーを母親から借りたコップに挿し、しばらく水道水で生けた。
 夜空を見上げると本に載っていない星座が見えた。学校の図書室では司書さんの知らぬ本が見つかった。その本を開くと見たことのない文字が並びその読み方までもが分かった。巻末をみると「持出禁止」の判子が押されていた。動物占いを試してみて「人間」と出た。
 現実が変化する、というよりは大抵の場合はそこに余分な情報が付加されるだけなので、それらの区別をつけることを怠らなければ日常生活を送る上で支障はなかった。何度も幻影の花に触れ、それを摘もうと試して失敗しながら、幻影として見えるものはその一瞬一瞬では静止していてそのあいだは自分の手で扱えるけども、それらをあたしが所有することはできないのだと理解した。
 あたしは人並みに他の人と言葉や物のやりとりをして、あるいは人並みにそれにしくじりながらも、学校に通い、友達と遊び、知識や知恵を蓄えた。かたやあたしにしか見えない本を読み、あたしにしか観ることの出来ない映画を観た。そこで蓄えた知恵もある。
 あたしにしか会えない人、というのはいない。自分を除けばの話だが、その逆だって言える。今もってあたしはあたしに会うことは出来ていない。それでいてあたしはせいぜいあたしにしか会えていない。これは敢えての悲観だ。
 そこそこの成績で大学を卒業したあとは就職もせずにぶらぶらしながら、友人から回ってくる仕事をこなし、無為徒食とは言われない程度の働きをして自活してきた。本当はアパレル関係の仕事につきたかったのだが、中途半端な語学力で翻訳の仕事を引き受けているうちに二七になった。自分にしか見えないものとそうでないもの区別をつけることは出来たが、そんな人間に服飾の仕事が適当だとも思えない。
 あたしの手は大体いつも暇を持て余し足はそれほど丈夫ではなく、山積する問題がいつも風に吹かれていた。
 化粧をする時にはなるべく睫毛はいじらないようにしている。特にビューラーで睫毛をカールアップさせるというのは御法度だ。睫毛を通した世界を見たかった。
 それでも、誰かがこの睫毛を切りに来る、そんな夢をたびたび見た。あたしの睫毛にハサミが入るところで目を覚ます。ようやく幻影から自由になったと思い、眠い目を擦ろうとした左の手の甲、親指の根元から手首にかけて細かな点の連なりが剥き出しの神経を描き、そこを流れる微弱な電流が非常な明るさで瞬いて、そのままそれは寝間着の袖口に流れ込む。
 五歳の時に結膜炎にかかった時以来、眼科の世話になったことはない。現実のものを見る視力は悪くはない。幻影を見る視力はよくなるばかりだ。他の類の医者にもかかったことはない。
 もともと目は大きい方だったので睫毛の手入れにはそれほど気を遣わずにすんだ。スクリューブラシで梳かして整えるくらいだ。あとは黒や透明のマスカラを使い分け、下向きの睫毛のアレンジを楽しむ。
 樫は現実の書き割りとあたしの睫毛があたしに見せる幻影の両方にまたがっていた。
 正確にいえば同じ樫が現実とあたしの幻覚の両方を行き来していた。
 人間である樫は、時にあたしの睫毛を透かして樫の木に変わった。それでも樫は樫の木のまま話し、樫の木のまま眠ったりして、気が付くと人間の姿に戻っている。樫がそれに気付いているのかどうかは分からなかったが、樫があたしにとって特別な存在だということは考えもせずに分かった。

October 20, 2011

20111020 - a song - 3

 電車代だけはちゃんと残してあるので午前五時前の始発に乗り込む。
 まだ夜は明けていない。この季節の日の出はおおよそ六時前後だとあたしも樫も心得ているから慌てることはない。火曜の朝だったけど時間が時間なので環状線の駅の構内にも車内にも人影はまばらで、季節からも時刻からも切り離された時の流れが電車の座席の形をして並んでいる。
 あたしはまばたき一つでその座席を電鉄の車両に見立てる。吊革をぶら下げる金属のパイプを線路に定め、交通を内側へ内側へと引き込もうとする。街はあたしの心のなかを移動している。あたしは夢見がちで現実離れしていて、本当は夢さえも現実のなかで見られるものだから足下がおぼつかない。
 あたしの睫毛はあたしを目の中に閉じ込める鉄格子みたいなものだ。目で見るものを手で触れて感じることまではできる。でもそれは睫毛に引っかかってしまい、ポケットに入れることは出来ない。そんなものも当然ある。あたしが座っている座席が電車の車両そのものであるはずはないのだし、あたしが足を投げ出して座っているシートが吊革のレールに沿って走っているわけはない。あたしが外からそれらを自分の好みのサイズで眺めているわけでもない。何かを抱きしめようとして結局は鉄格子めいた睫毛を抱きしめていることになる。睫毛に絡みつき、減速し、カーブを切り、不可能な方向から寄せた光りがあたしの視界を奪う。あたしの視界はこの街を通り過ぎた様々な時間や視角の残映に奪われている。
 ふとあたしは自分がこの街にやって来た頃を思い出す。
 と話し始めたいところだが、あたしはこの街の生まれだ。
 けれども自分がこの街にやって来た頃の光景がありありと浮かぶ。
 それはちょうどこんな景色だった。
 これはちょうどそんな景色なのだろう。
 シャッターを切るみたいに瞬きを繰り返す。少しずつ景色がずれていく。電車が動き、線路がそれに追随する。あたしが瞬きを切るワンフレームごとに景色は横にずれて建物の角度が異なる。空の光量はほんの僅かずつ増している筈だがあたしの感覚は車内の電灯に均されて車外の明るさの変化を察知することができない。列車は早朝の市街地を忌憚なく貫いて走る。住民たちの寝息が聞こえないのはこの列車が通過する音に彼らの眠りが妨げられたせいだろう。
 建物が途切れ東の空が露わになる。
 「ねえ、樫」
 見てよ、窓の外。
 樫は節くれ立った樫の木になって眠っていた。ガタンゴトンの音がその外形を撫でて震わせている。かける言葉も毛布もない。魔法はあるが魔法の言葉はない。言葉にかかる魔法はある。樫が樫という言葉にかかった魔法であるように。闇や照明の光りに乾いていたぼさぼさの髪の毛と顎髭と無精髭が、そこかしこで反射して届く夜明け前の日光に湿り始めていた。さっきまで飲んでいた酒の匂いが漂っていた。あたしは髪留めを直し、右ポケットに切符が入っていることを確認する。前にもこんな明け方はあった。こんな散歩を何度繰り返したのだろうか。これから何度こんな散歩をする暇を見つけられるだろうか。これから何度こんなことを思うのだろうか。
 これまでに重ねてきた散歩のあと、何度こんなことを思わなかったのだろうか。
 感慨のなかったそんな朝の方が懐かしく感じられる。
 「着いたよ」
 あたしは肩に触れて樫を起こす。
 まだ着いてはいなかったのだけど。

October 19, 2011

20111019 - a song - 2

 あたしと樫は公営住宅の夜から抜け出して時計だけが午前二時を指している繁華街の人混みのなかにいる。そのまま繁華街を抜けて歩き続ける。平日の夜だ。
 樫はいつもみたくあたしの格好にけちをつける。あたしはそれを聞き流す。あたしは肩胛骨のあたりまである髪を結い上げて細い三つ編みを何本か垂らす。裏返しに着たグレーのトレーナーの襟元のタグには夕立を刺繍した。たまに止んでいる時もあるが、気付けば雨はまた降っている。あたしの睫毛を透かすと物事はそのように見える。
 そのトレーナーには他にもワッペンやらバッジやらが留められていて、手洗いの時に外せるバッジは外す。そのトレーナーはもう何年も着ているものだ。と言いたいところだがまだ一年と少ししか着ていない。どこでそのトレーナーを見つけたものだかもう覚えていない。どこにでもありそうなプレーンのトレーナーで、襟元が少し伸びている。グレーのトレーナーだけど裏地は少し毛羽立ち、白に近くて、頼みもしないのに誰かが勝手にバッジをつけてくれることもある。かと言ってじゃらじゃらと装飾がうるさいというほどでもなく、たまにワッペンやバッジを張り替えたりして穏当な見かけを保とうと努力している。
 「なあ睫毛、まるでスクリーンみたいなトレーナーだな」
 と背後から樫が言う。樫は黒いパーカーにベージュのチノパンを合わせている。映画で見たどこかの国の憂鬱ではないサバービアの大学生みたく見える。
 「まるでトレーナーみたいなスクリーンでしょ」
 とあたしは答える。
 あたしと樫は行く宛でもあるふりをしながら歩く。ただ歩くのが好きなのだ。そしてあれこれ好きなことを言い合う。あるいは格好つけて沈黙を使って会話をする。樫は自動販売機を見つけるたびに缶珈琲を一本ずつ消費する。
 「体に悪いよ」とあたしが言うと、
 「命は体に良くない」との答えが返ってくる。
 「生命は性病である、っていうジョークみたい」
 樫はあたしの言葉を聞き流して工事現場に向けて空き缶を放る。月と地表のあいだを風が吹いて抜ける。
 樫が口笛で夜風に命を吹き込む。新鮮な夜風がその懐かしいメロディをすすぐ。時間の流れがすっかりと落ち、それは現在に属するものになる。それでもあたしは樫が未来に向けて懸命に口笛を吹いていることを知っている。息が闇に溶け込み時間のどこかで滴になって落ちる。
 「それなんの曲だっけ」
 と聞くと、樫はまた別の曲を口笛で演奏し始める。
 そのどちらかの曲名はきっと『アイ・ドント・ノウ』なのだとあたしはあたりをつける。
 そのような内実を確かめないままの冗談を沢山抱えたままあたしたちは歩き続ける。そうやって特にあてもなく歩いていること自体が内実の確かめられないままの冗談の一つではないかと思うこともある。
 あてもなく歩いているという割りには様々な場所に立ち寄る。あたしと樫は立ち寄った先のバーで一杯ずつ酒をおごりあう。乾杯とは言わずにただグラスをぶつける振りをする。午前四時くらいに辿り着く場所ではあたしも樫もほとんどすっからかんで、生ビールを一杯注文してそれを二人で分け合う。近所のコンビニまで出るのも億劫だった。
 「あんなに缶珈琲ばかり飲まなければ良かったのに」とあたしが言うと、
 「そうじゃなかったらこんな時間まで起きてられない」との答えが返ってくる。

October 18, 2011

20111018 - a song - 1

 あたしと樫は秋のプラットホームに降り立つ。
 あたしは睫毛を見ながら生活している。
 春夏秋冬という名称にさほど意味はなく、いつも漠然とした季節を生きている。名前があるから印象が生まれ、印象から実感を膨らませ、実感からあたしはあたしを取り出す。それでもあたしにとってあたしはあたしという印象であることを知っている。
 電車のなかのニュートラルな空気があたしは好きだ。季節感のない昼夜の移動、光景が過ぎ去り、目的地が自然に発生するようで、常に帰り道を検索して情報が絡まる。用事を思い出して、家を出た理由を忘れる。それから数年経つ。
 軽々しくこんな事を言っているが、人間はもう少し複雑に出来ている物だとあたしだって知っている。世の中はもう少し複雑にできているものだとちゃんと心得ているし、それなりに折り合いを付けながらこれまで生きてきたが、近頃はそのような折り合いをつけつつも、目眩が止まない。あたしの体や意識が処理しきれなかった現実の一部分が目眩となり、あたしという印象があたしという人称を名乗って生活している。
 随分と昔に「現実は遅すぎる」と知り合いのウェブデザイナーが言っていたことを思い出す。かと言って車や飛行物体が行き交い飛び交うなかで暮らしていくというのはいかにも物騒なので、人間には人間用の物事がほどほどの速度で進行する環境が用意されている。車道と歩道はちゃんと分かれている。それでもブラウザーは定期的にRSSフィードを拾い続けメールは頻繁に届き、ソーシャルネットワークサイトで近況がアップデートされてコメントが付き、誰もがいいねと思ったり別にいいねと思ったりしている。そこでは結構な速度で物事が進む。
 そのウェブデザイナーの発言だってスクランブル交差点の真ん中で発せられたものだ。その時にその空間を取り囲む信号が点滅し始めていた可能性だってある。だからあたしは自分を取り囲む目まぐるしさ、現実の速度、あるいは目眩の濃度を、自分の生活のどこに焦点を合わせるかで調節するようにしている。
 珈琲がカップから減るペース、曲から曲へと流れるペース、音楽に含まれる拍子のペース、あたしはあたしの生活を組み立てる部品を砂時計として見立て、自分の鼓動の早さを決定している。ひとつのペースにまた別のペースが含まれていたりペース同士で重複する部分がある時もある。仕事場で音楽を聴きながら珈琲を飲んでいるときには、音楽の目まぐるしさに巻かれて、珈琲の減るペースを砂時計として用いることができない。忙しさのなかにゆったりとしたペースが含まれているのだから別にいいじゃないかと思うことがある。仕事や音楽のペースのなかにゆっくりと珈琲を飲んでいるペースだって生きている。贅沢は言えないな。そのように思うこともある。
 そのようにバランスを保ってきたつもりだったが、近頃は目眩がひどい。すべてのものに一律に焦点があっているかのようだ。あたしが直接見たり触れたりすることの出来ないすべてのものも含めて、この世にあるものすべてのものからの僅かな引力にあたしの皮膚や血液が反応しているかのようだ。月から引力を感じ、海からの引力は潮汐により変化する。それらの引力の波があたしの髪の毛のように流れ艶を返す。人の流れにより重力が変化して光りの届き方が変わる。あたしに見える光景が変わるのはそのせいだ。
 光りは直接あたしの眼球には届かず、まずあたしの睫毛に絡め取られる。睫毛は光りを漉して、光りが睫毛を彩色する。あたしはその睫毛を見ながら生活している。
 あたしのことは睫毛と呼んでくれて構わない。