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      <title>nobodyhurts</title>
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      <description>
★

(a + b + c)

(a) = anonymous daze
(b) = binary soup
(c) = careful mistakes</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
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            <item>
         <title>20120325 - Anna - 6</title>
         <description><![CDATA[<p>　水滴が打っている間には獣は水たまりを過ぎらない。最後の一滴が水面を打つのを待つようにして最初の一匹が曇り空の映像を横切る。水滴の一滴から一滴を渡っていた獣の影が静まった水面に在る街と建物の輪郭線上で毛繕いの真似もしないままじっと力を蓄えている。獣の影は背をしならせて背を曲げている。筋肉の繊維の一本一本が長く伸びた体毛で濡れた毛の束が血管だ。空気の流れを透かして体毛が水面のようにそよぐ。それは彼女の虹彩に縁に映った水たまりのなかの影だ。僕は視線を午後六時の街へと外して、獣の影から逃れる。週末の混雑と騒音を静かな街並みが湛えている。大通りの交通を歩道が挟み、石と窓で作られた建物の列が遠くで背景の空に触れている。<br />
　天候と時刻が運び入れたどことなく清涼な空気が衣服の裾を巻き込んで僕らは何となく背筋を正す。目覚まし時計の針を合わせるような感じで。目は覚めているというのに既に。爪先で東西南北をつなぎ止め足し合わせる。宇宙空間を年中無休で落下しながらまっすぐと歩く。一歩一歩が落ちていく。だから地面は触れることのできる空だ。長い時間をかけて街の形で空を削り出してきたのだ。混雑する人々の肌や衣服やざわめきが僕らにとっての地表だ。それらの制限を無視する獣が街の形を蹴って街の鏡の中を移動していく。まるでそこに落下などないことを保証するかのように水たまりから水たまりを僕らの視力そのものとして渡っていく。その漠然とした様子が飾り気を剥ぎ、明快さが理解を必要とせずそれを殺す。惰性に殺られなかった理解の小さな水たまりで獣をひとまず囲おうとするその度に宙を落ちる水滴の表面を軽々と獣の影は移動し続ける。数十億の数で地表を打った僕らの一滴一滴の表面を獣が渡っていく。そうして完全に透明になった街を無数の獣の影だけが飛び交う。一滴の笑いや涙の粒や吐いたり飲み込んだりした唾を通して僕らは街の外形を取り戻す。話せば長い。人生より長くなるのは目に見えている。だから一度話し始めたものが終わることはない。<br />
　「安心だね」<br />
　とそばかすを浮かべて彼女が言う。あるいは僕がそこにそばかすを見ているだけか。同じ事でないのならどちらでも構わない。アーケードの高い天井に留められた照明に照らされた彼女の灰色の瞳が色彩を求めあちこちに泳ぐ。あるいは僕が決して理解することの出来ないただ一つの色の断片をそこかしこに見出し続けている。僕らはアーケードの内外を回遊する。急ぎの用事はない。自分で何かを話し始めたという記憶もなければ何かを引き継いだという気負いもない。はなからの約束もかねてからの報酬もない。僕一人が欲しがっているものは僕にとっては大した意味を持たない。ひとまずは彼女のそばかすのようなものが自分にもあればと今はそう思う。どちらにせよ。</p>]]></description>
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         <pubDate>Sun, 25 Mar 2012 08:23:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20120323 - Anna - 5</title>
         <description><![CDATA[<p>　夕方過ぎに再び降り始めた水の中を歩く。雨の平たい意味が無数の破裂音となって散り、街に詰め込められた無数の居室を水気もないままに濡らす。水に濡れないままの居室が雨に濡れる。その一方で水滴だけが地表を濡らし僕らを濡らす。水滴が大気を切り裂く音が新車の匂いみたくいつでも空気をざわつかせている。よく耳を澄ませば遠い昔に水滴が空気を擦っていた音を現状の喧噪や雑踏から選り分けられそうだ。両耳のように空気中で鳴り続けているその音は、実際に水滴が地表を打つざあっという放射に圧倒され、晴れた夏の蝉の鳴き声に紛れ、夜中に積もった雪に吸い込まれ、街路樹の樹皮から吸収された後やがて秋には紅く染まって散り、彼女の手のひらに舞い降りた桜の花弁の重さとひらひらという余韻に集中する。<br />
　衣擦れと区別の利かないその残響を僕らも感じることがあった。彼女と出会った曇り空の晩、上空を行き交う獣の影をやりすごしながら僕らは衣服を挟んで体を密着させて立ち、雨が空気を引っ掻いた音の残響に耳を澄ました。それが互いの体内を血液が巡る音に掻き消されることに気が付いたのか彼女は一度だけ滴のように笑う。違う時には海のように取り留めもなく泣く。それは遥かな遠浅の海でどちらが沖でどちらが陸だか最早分からない。<br />
　擦れ違う人々が色彩で動いていて、肌や目鼻立ちや、様々な組み合わせの衣服の細部や、擦り傷のような繊維の皺に至るまでどこまでも突き詰められる。随分の人だかりで、人々の目的を呼吸して活動する街が時折生まれる店舗で足跡を新たに受け止める。週末の人手に特価を告げる店員の裏声となだらかに続く商業が見事な対比でアーケードに連なる。<br />
　アーケードを抜けた僕らは水に濡れながら大中小ばらばらの大きさの水たまりで雨を踏み抜く。飛沫を立てて走り去る車の、金属に守られた乾燥した内側にはまだ新車だったころの匂いが残っている。長年に渡り染みついた他の色々の匂いに遮られたそれを運転手はいつでも嗅いでいる。だから人が好きになれるのだと臆面もなく彼女は言う。その顔にそばかすは浮かんでいない。それは彼女に関する事実ではないからだろう。そう信じるよう彼女に迫られているような気がする。言われなくても、という僕の返事には彼女は彼女なりに耳を貸さなかっただろう。<br />
　夕闇に点る街灯や、大通りに面した建物の壁面の看板の縁をなぞる電飾や、窓から零れる照明のくぐもった輝きを返して水滴が蒸気のように空中でざわめく。その下、足元の堅い地面が僕らの落下を永遠に保証している。陸地に、それも雨のなか賑わう街頭を歩いているというのに沖と浅瀬の方向を見定めようとうろつき続けているような気分になる。雨が波打ち際なのだから大丈夫だと彼女が言う。確実な夕闇に隠れてそばかすは見えない。</p>]]></description>
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         <pubDate>Sat, 24 Mar 2012 04:52:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20120323 - Anna - 4</title>
         <description><![CDATA[<p>　「やはりさ主食がなくなったのかも知れないよ」<br />
　そばかすのない面でアンナが言う。<br />
　誰かに借したまま返ってこない漫画やCDやおごりっぱなしの飯や酒や珈琲や、誰かが聞き取れなかったり理解できなかった言葉を喰らって獣は生き長らえていると、どこからかそんな説が湧いて広まったことがあった。裁断された漫画がスキャンされエンコードされた音楽がデータで流通し始めた頃に獣たちは姿を消した。でも大抵の場合は人は日を改めて酒や珈琲をご馳走してくれたし、誰かが聞き取れなかった言葉は別の機会に別の言葉でやはり理解の及ばぬままその誰か自身により語られていた。だから獣の主食がなくなったというのもいい加減な話なのだ。それに獣は完全に姿を消したという訳ではなく、その影は依然として水面の艶を瞬きのように過ぎり続けていた。いつもそんないい加減な伝説を交換しながら現実が何に含まれているのかを探ろうとしていた。単に感傷的なのだと自分では片付けていた。<br />
　複雑に入り組んで在る日々の事情や感情を、複雑だとか感傷だとかの一言二言で均そうとする僕をタキはどこかで軽蔑していた。僕がタキでもきっとそうする。かつて感傷と呼んでいた感覚は最早感傷という言葉との結びつきを失い、郷愁でも寂寥でも孤独とも違うそれは欲望に似て在って、それが僕を無視している。ゆらりと無言で立ち上がり人を避けながら洗面所に向かうアンナが残した空席の形を借りてそれは自分に気づけと気まぐれにうながす。<br />
　獣たちは僕らの信仰の対象ではなかった。ある一面では獣は獣を獣と呼んでしまうことの気恥ずかしさだった。それもあって僕らは自分たちが自身がその獣であると混同することはなかった。その気恥ずかしさを取り繕おうと僕らはあれこれと体面を整える。開き直るという態度ですら体面の整理だ。それよりも更に無力になる術がある筈だ。<br />
　いつかの夜、取りあえずは無力にも無力である振りをしながら僕らはテーブルを囲んでいた。この街の酒場のひとつのテーブルを囲むことにより世界のありとあらゆる酒場のどれでも構わない一つのテーブルを僕らは囲んでいた。ほぼ無力にも。<br />
　余所であるここにいることは暫くの長旅のあと自分の暮らす街を改めて眺めた時の微かな違和感の中で生きることで、確かに覚えている何かと目の前で一時的に理解できなくなったものがしかも噛み合わず、それが割れたグラスの破片にせき止められながら確実に床に拡がる液体のように眼前の光景の抵抗に少しずつ馴染み、光景を少し滲ませ、肩までの長さのアンナの真っ直ぐな髪の毛とろくに手入れもされていないタキの髪の毛が揺らいでいて余所から余所での暮らしが長く、指をもたせかけたテーブルの角は他の箇所と同じように堅固で、耳元を滑り抜ける酒場の空調に冷やされた僕の頭が他の事物と同じように少し堅くなる。現実感が希薄なのだとふたりっきりの時にそっとアンナが諭す時、彼女の顔にはそばかすが浮かんでいる。<br />
　誰かや何かについて彼女が事実を言っている時にもアンナのそばかすに色が戻る。まるでそこに何かの事実があるみたいに彼女が物を言うときだ。逆に、僕がアンナの陳述を僕が何かについての事実だと認めた時に僕が勝手にそのそばかすを見るのかも知れない。それならば多くの機会に渡り僕はきっとそのそばかすを見逃している。<br />
　「何でこの街で育ったんだろうね？」<br />
　かつては夜空に、不明の獣のその影が飛び交っていたような街に。<br />
　僕らは黙り込んだままテーブルを囲み、アンナが場に広げた問いのない答えに耳を澄ましていた。<br />
　僕は彼女の顔を見ずにタキの酒の表面を獣の影が横切るのを待っていた。<br />
　その時の沈黙を引きずったまま僕らは何曜日かの街を歩いていた。<br />
　「あの時のこと覚えてる？」<br />
　僕が唐突に訊ねる。<br />
　「まだ思い出してない」<br />
　順を追って唐突にアンナが答える。</p>]]></description>
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         <pubDate>Fri, 23 Mar 2012 06:39:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20120322 - Anna - 3</title>
         <description><![CDATA[<p>　「あの時のこと覚えてる？」<br />
　煙草を揉み消したアンナに僕は尋ねてみる。<br />
　「まだ思い出してない」<br />
　いったいいつのことを話してるのか分からないから。と彼女は付け足す。だからとっととその無意味な前置きを止めてよ、と彼女の目が厳しくなる。その両眼の下にそばかすの跡がある。<br />
　別にいつのことでもいいんだけど、という言葉を飲み込んで、<br />
　「例えばいつか獣たちのことを話してた時とか」<br />
　そのようにして僕らは話し始める。<br />
　僕らは獣が消えたことを割と真剣に案じていた。僕らは闇を駆る獣の姿をこの街で見上げながら育った世代で、石と鉄の輪郭と電飾の光りを自らの毛艶と競わせながら絶えず到着しながら飛び去っていくその獣たちの姿に自らの身の誇らしさを預けていたこともあった。少しずつ夜空に目をやる機会が少なくなるにつれて、獣たちがその数を減らしているということを気付く機会も知らずのうちに少なくなった。<br />
　獣は盲目になったのだと言う人もいた。<br />
　盲目になった獣は今や朝も昼も夜も関係なくただ一つの全き暗闇の中を疾走するようになった。湿ったコースターを親指と人差し指で挟んで弄びながら誰かがそのように教えてくれたことがある。そのあいだにグラスの汗が作った水たまりが反射するオレンジ色の照明の艶を獣の影が横切るのを二人とも見ていた。頭上のフルレンジスピーカーから零れる空気の振動がオレンジ色の湿気を目眩みたいに歌わせていた。<br />
　昼夜を問わずに永遠の闇を移動し続ける盲目の獣たち。ちなみにその案は余りに現実的で特に目新しくもなんともないという理由で賢明に却下された。どのみち昼夜問わず時の渡りが行われるようになったために日が落ちた後に渡りを続ける獣の数が減り僕らがその影に気づかなくなったからと言って、それが獣が水たまりから水たまりを跳ね続けることには結びつかない。それに水分に映る照明の艶を交う獣の姿も魅惑的に思えた。<br />
　いつかの午前三時、酒場の振動に濡れた空気を震わせようと僕らはやや大きな声で話さなければならなかった。幾つもの美しい影が目の前を通り過ぎて行く全ての場所や晩を書き割りにして僕らはテーブルを囲んでいた。ふと目の前に重なる遠い異国の酒場の光景が自分たちが送る当たり前の日常として馴染んだ。どこか遠くの似たような場所でも同じようにこの場所が馴染んでいるのだと僕は想像した。それが自分がここにいるための条件だと思った。未来と呼ぶためには何かが気安すぎて最早書いた覚えもない日記を読み返しているみたい、と珍しく愚痴をこぼしたアンナが不真面目であると彼女をなだめるついでにタキがその時にそう指摘した。<br />
　そうやって本当のことを指摘されるとアンナの灰色の目の下に散らばるそばかすの跡に色が戻った。微かに黒の混じった焦げ茶で肌色に重なるそばかすはアンナの昂ぶりが収まると共に再び薄くなった。<br />
　アンナのそばかすに色を戻すのが事実の指摘にとどまらないことを発見したのもタキだった。<br />
　平常のアンナに、<br />
　「あ、そばかすが」<br />
　と告げても彼女の鼻梁を渡り両眼の下にかけて点々が現れることがあるのだ。</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 22 Mar 2012 06:37:55 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>20120321 - Anna - 2</title>
         <description><![CDATA[<p>　街を行く何曜日かの今日の彼女の爪にマニュキュアは乗ってなくて、指先で挟んだ煙草が燃えている。手首には褪せた銀色の無地のバングル。細い革ベルトの秒針のない腕時計。ジャケットからはみ出たオーバーサイズのトレーナーに裾が腰骨の下で垂れ、スカートが膝小僧を隠している。<br />
　その背景を携帯電話キャリアの路面店やチケット屋やカフェや中古ゲーム屋の映像が流れていく。アンナが同じものを見ているのは分かる。差異ではなく何らかの共通項が違った風に際立つ。そこから旅立つこともそこに帰ることも出来ずにただ流れ続ける。自分の外見と誰かが見ている自分が合わせ鏡になって幾重に閉じながら果てしない奥行きを持ちその間隙の一つ一つに現実が殆ど収まってしまいそうだ。そこに映ったどれかの僕が手を振ると傍目にはそこにあるどの僕であろうと同じように手を振ったように見える。どこかのアンナの際でアンナの指先を見ている僕にただ燃えていく煙草が時間の経過を教えるのではなく示す。見せるのではなく関心もなく促す。そのいちいちが閉じた扉の僕は合い鍵としてある。鍵を作るための合い鍵だ。施錠はできない。<br />
　闇夜を渡る獣たちの影を見かけなくなった理由なら何となく分かっていた。そこにあるのが昼夜の別のないひとつの平坦な時間だと誰かが気が付いた時に獣たちはその姿を消した。そこにあるのは風に巻き込まれてかき乱されることのある単に平たい時間の流れだった。夜の平衡状態に光りが割り込んだコマ落ちの街で人影の密度が体温の濃淡をなぞって変化する。天気雨が降ってどこかでは虹がかかり別のどこかの滝が落ちる先で同じ色形の虹がかかっている。眠れぬ闇に淹れたコーヒーの艶を獣の影が横切る。モニタ上で再生中の曲を示す青いバーが行を移していく。変化や進行ではない振りをしてコロンが秒毎に点滅している。そこにあるのは余りにも平板な時間だった。その上にマグカップを置いて保っておくことができそうなくらい。その平板な時間を傾けて僕はカップの中身をあおった。平板な時間の中に日々の凹凸が垣間見ることがあった。事実や事物と呼ばれているそれらに僕はその度につまずいて転ぶことができた。起き上がるのかどうかは選択肢ではない。<br />
　次に死んだ時にもきっと同じような夢のなかで目覚める。他愛もなくそのように夢想する僕が僕であることを欠いた自意識として、それは主に一部ではそこに誰かや何かが存在することの単なる証左として。そんな理由で僕は別の誰かがその誰かであることを欠いた自意識として存在している。僕自身とは無関係なそれは単に現実の例文だ。アンナがアンナであるという理由から僕が見ている彼女がそれを勝手に応用する。いつもいつかとは違う爪の色をしたアンナがいつもいつかとは違う装身具を纏ってコンビニの軒先の灰皿で煙草をもみ消す。いちいちそのようにして。</p>]]></description>
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         <pubDate>Wed, 21 Mar 2012 03:35:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20120320 - Anna - 1</title>
         <description><![CDATA[<p>　遠いいつからか飴みたく引き延ばされ目の前で平らになった風が時間を巻き込みながら街を渡る。<br />
　昨日から今日を吹き抜けて明日へと風が永い時を駆る。時の中を人々が行き交う。僕とアンナはそれを眺めている。太陽が街の輪郭に削られて光が薄らぎ闇が明らかになる。風は余りにも永い時間を吹き抜けて来た。あれから余りにも永い時間が流れた。これから余りにも永い時間が流れてしまった。これから先にそれを振り返るための余りにも永い時間が訪れる。気が遠くなる。<br />
　止んだ雨の水たまりが路面の起伏を均す。水面が黄昏の空を引用している。空の影を借りてそこかしこに灯る人工的な光を反射して見せている。一瞬一瞬に渡って静止した時間を捉える。自分が知った小さな今を繋いで、取りこぼしていく多くのものの埋め合わせをする。僕らは街に立ち、時間が風を巻き込んで流れていくのを眺めながら、夜中に自分ひとりで過ごす時間やアンナと過ごす時間に取りこぼしたものを埋め合わそうとしている。これから訪れる一人の時間やアンナと共に過ごす時間に僕らがそれぞれ捉えられずに逃していくものの理解と弁明をしようと僕らは眼前の光景に含まれている。それが事実だ。<br />
　堅固な街並みが風にそよぐ。獣が闇から闇へと渡る。光りを避けるその獣は昨晩から今晩へ、今晩から明晩へと、場所だけを無視して闇夜から闇夜を渡る。僕らの想像のなか狼の痩躯さを野猿の体つきに宿したその獣は前脚で後ろ脚を抱えるようにして街路に沿って立ち並ぶ建物の縁で力を溜め次の跳躍へと備える。跳躍の瞬間にその力が弾けて、空を渡るあいだその獣の肢体は完全に弛緩している。そのあいだ獣は自由だ。それに倣うわけでもなく、僕らは自分が捉えることが出来た瞬間毎に一組の足と目と耳で蓄えた情報を皮膚の下に忍ばせる。それを発散しながら、日々取りこぼし気が付きもしない数多くの瞬間を僕らの肌は滑らかに潜り抜ける。<br />
　僕とアンナが出会った晩にもその獣は空を駆っていた。いつもその影だけが見えた。僕らはその獣が闇を渡るのを見上げながら育った。様々に興っては廃れていく文化の形象を汲み上げながら時に満ちた流れの中で虚ろなものを見つけた。映画を見たり、音楽を聴いたり、画集を眺めたりする経験のなかに僕らの周囲で満ちている時間が落ち込んでいつも自分の体の形をした小さな虚ろが生まれていた。僕らの体がその虚ろを満たしていた。皮膚に触れてくる時間の充溢を逃す先を僕らはいつでも探していた。　<br />
　いつからか闇の空にその獣の影を見かけることはなくなった。<br />
　彼らはどこに行ったんだろうねと僕とアンナとタキは折りに触れて話し合った。<br />
　「どこか違う街に行ったんじゃない」<br />
　「汽車に乗って？」<br />
　「あるかも知れない」<br />
　空を行くその姿を見かけなくなってからも獣は水たまりが含む光りをよぎった。水たまりから水たまりへと姿の内側で自由に駆っていく。深夜のバーカウンターの上、グラスに注がれた液体の表面をその獣の影が通り過ぎる。今ではその獣の影は街に散在する小さな酒場の数々のグラスに切り取られた水面を渡る。オレンジ色の光りに灰色の影が過ぎる。アンナの眼も透明に近い綺麗な灰色をしていて更にその奥に底知れぬ透明が見える。アンナの瞳を長い時間覗き込むとその透明さが自分を見つめ返しているのが分かる。その透明に言い含められ、アンナが見ている自分がそこにいないような気分になることもしょっちゅうだった。そんな時にはその透明の手前にある綺麗な色を介して自分たちがそこにいることを確認するのだった。</p>]]></description>
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         <pubDate>Tue, 20 Mar 2012 10:29:41 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>「プレイン・ベガス」</title>
         <description><![CDATA[<p>1</p>

<p>　ある夏の部屋でわたしは目を覚まし伸びをして届かぬ天井の高さを両腕で測ろうとする。</p>

<p>　わたしは様々な場所で目撃される。ユーラシア大陸、その東端の島国、北米、地上、地下、都市、砂漠、場所や時代を問わずに同じわたしが目撃され続ける。時ところにより姿格好は様々で、年齢も微妙に異なる。中央アジアで目撃されるのは隊商に混じって騾馬の手綱を引く十代半ばのわたしだし、北米にいるのは二十代後半から三十代前半のわたしだ。極東の島国で青春時代を過ごすわたしもいる。互いに関わりを持つことなく決して途切れることのない映像のなかで、またそこから切り取られた一コマ一コマの無数の静止画のなかで、わたしは穀物の値段交渉を行い、中央アジアの冬の集落で隙間風の入り込む壁を漆喰で塗り固め、ある場所では観光客として写真を撮って光景の複製を作り、また別のどこかでは盛り場の入り口で入場料を支払おうと財布の中身を漁っている。<br />
　そのすべてのわたしがわたしというわけではない。そのほとんどはわたしにそっくりな誰かの姿だ。そこにわたしの過去や現在の姿も混じっている。一貫したものとして存在するわたしの姿があり、わたしにとっては他のものは単なる逸脱に過ぎない。もちろん他の時代の他の地域に暮らすわたしにそっくりな誰かやその誰かの集まりにとっては、わたしはわたしの人生をわたしにとっての逸脱として含むわたしと同じ外見の誰かのその集まりに含まれるものでしかない。<br />
　自分自身の記憶と概ねそれに沿った来歴を持つわたしはある夏、自室で日に二三枚音楽のアルバムを聴くのを日課にしていた。友人から借りて、レンタルして、中古品を掘り出して、無名過ぎてここで名前を挙げてもほとんど知っている人間がいないようなアーティストか、余りにも有名過ぎてここでいちいち名前を挙げるのも躊躇われるようなバンドのアルバムを聴いた。ある年齢層のある文化圏に住む人間が聞いていて当然と思われる作品は大抵は聞いている。もしくは過去のある時期のある年齢層のある文化圏に棲息する人間が聞いていて当然だとされるアルバムも大抵聞くようにしている。<br />
　そんなライフスタイルに付き物の「人生のサウンドトラック」というどこか安っぽい物言いには寒気を感じさせるところがある。まるで映画のなかの出来事みたいに自分が含まれる光景が任意の視点から切り取られてあるかのように思わせる。まるで自分の人生が作り物としてあるような、鋳型に人生の時間を流し込んでいるようなそんな気持ちになる。実際にはわたしを含む時間のわたしを含んだ固定された視点など存在しない。わたしがいるのは映画の中などではない。いつでもそこに音楽が流れているのは確かだけれども、人生のサウンドトラックなんて言い方をされるとそこそこ有名なバンドのこんな歌詞を思い出す。<br />
　「あなたはあなたの人生の続編のエキストラとして選ばれました」<br />
　そしてその歌詞を思い出しているのは紛れもないわたし自身なのだが、大きなお世話だ、と思う。<br />
　日に二三枚アルバムを聞くが同じアルバムを日に二回聴く事はないが、同じアルバムを二日以上続けて聴くことはしばしばある。そうしているうちに天気が変わるみたく時間が流れた。<br />
　ある時分のわたしがプレイン・ベガスのアルバムを手にする。プレイン・ベガスは1990年代中盤頃アメリカ西部で活動を始め、日本でもいち早くその音源を聞いた耳聡い人々がそのバンドについて語り合い、彼らのアルバムがわたしが日に二三枚聞くアルバムのローテーションに組み込まれたことがあった。正確に言えば彼らの作品がある時期のわたしの聴くアルバムのローテーションを乗っ取り、わたしの聴取からの記憶を占有していた。<br />
　プレイン・ベガスのデビュー・アルバム『セブン・ラスベガス』はCD七枚組の超大作だった。それらのCDを七枚同時に再生すると別のバンドのアルバムとして聞こえるというまことしやかな噂も流れた。あるレコードを逆回転させると悪魔からのメッセージが聞こえるというような類の伝説だ。あるいは七枚組に含まれるCDその一とCDその四を同時に鳴らしたものを録音して、それをCDその五とCDその六を同時に鳴らしたものを録音したものと同時に再生して、さらにそれを別の組み合わせで多重録音した『セブン・ラスベガス』のCD群と同時に再生すると、いずれは正当な『セヴン・ラスベガス』が妙なる音楽として奏ぜらるると考え、九十年代いっぱいをその実験に費やして二十一世紀に入ってからはすっかり音沙汰のなくなった友人もいた。CD七枚組と言っても正当な『セヴン・ラスベガス』は既にそのうちの一枚としてパッケージングされており、他の六枚は完成されたアルバムのデモだったり、恐らく同じネヴァダ州の恐らくは同じ郡出身の別バンドにカバーさせたものだったりした。<br />
　プレイン・ベガス名義のアルバムとして完成している『セヴン・ラスベガス』は一枚きりなのだけど、そのような表記はどこにもない。後にセカンドアルバム、サードアルバムが発売され、プレイン・ベガスの技倆や音楽性が知られた後に振り返ってその七枚の中に一枚完成品と呼んで良いものが含まれていると判断されるようになったのだ。それにしたってメンバーから正式がアナウンスがあった訳ではないから一部のファンのあいだで共有される個人的な伝説や日々の生活に含まれるものでしかなかったのだけど。「ディスク1」と銘打たれたものが現在では取り敢えずのデビュー作として扱われているけどその作品にしたって正当な『セヴン・ラスベガス』アルバムのセルフカバーでしかないという、プレイン・ベガスのベーシストによる仄めかしもどこかで見かけたことがある。ディスク2と3はほぼ同内容で現在では双方ともディスク1のデモ・バージョンとして扱われている。それでも各曲の伴奏のキーとコード進行と歌詞は一致しているのだが、歌詞のリズムとメロディラインが異なっている。たとえばそこから、ディスク1の内容もそのバリエーションの一つでしかないという解釈が生まれる。その前提から極言すればプレイン・ベガスの正式なデビューアルバムは存在しないことになる。「今度プレイン・ベガスの正真正銘のファースト貸すよ／貸してよ」という冗談が流行ったある夏の部屋で届かぬ天井の高さを測ろうとわたしは伸びをしていた。<br />
　“Those were the days nothing happened”ーそれは何も起こらない日々だった。そんな前世紀風のタイポグラフィーが配置された紙切れが他のポスターやら切り抜きに混じって壁に貼り付けられている。アルファベットの背景には何処かの郊外の空の写真、届かぬ空を目指して上っていく風船、写真の右下から届かぬ風船に向けて伸びる手、空の青、風船の赤、白い手と腕、マニキュアの塗られていない爪の下の血色を見ることは出来ない。CDショップで手に入れた海外の音楽雑誌からの切り抜きだ。見開きの左側のページいっぱいにそのアートワークが設えられていて、そのすぐ右のページからプレイン・ベガスのインタビューが始まる。<br />
　その写真とプレイン・ベガスのインタビュー記事の配置にどのような編集上の意図があったのかは分からない。広大な郊外の空の下でその写真とインタビュー記事とが偶然に出会い雑誌の見開きを分け合っている。それがわたしの生活と交差して、わたしはそのページを千切ってある夏の部屋の壁に貼り付けた。至るところで散見されるそのような何の意味もない多少の感傷ばかりを孕んだキャッチコピーがわたしの生活を解釈していた。前世紀のどこかでわたしはそのようにして生まれた。誰か自分のものではない記憶が複製されて配布されている。そのような幻想が配布されていてわたしはその過程のどこかで生まれた。希釈され続けた末に自分自身の出自に関する記憶を失ってしまったポップカルチャーのその形象が累積したものとしての自分。だからわたしは始めっから存在した試しのない帰り道をずっと逆から辿っていた。<br />
　「そうではなかった日々を俺は思い出せない」<br />
　プレイン・ベガスのヴォーカルであるサンプ・サンプ・サンプが千切られたページの右側のインタビュー記事の中でそう答えている。それは前世紀の最後の十年期も中盤に差し掛かろうかという頃で、高校生のわたしはファーストフード店で英語の記事を苦労しながら読んでいた。午前十時、特に悪びれることもなく卒業に必要な出席日数を数えながら学校を休み、要らぬ暇をそのようにつぶすことがよくあった。<br />
　『それは何も起こらない日々だった』。<br />
　プレイン・ベガスの曲のタイトルと言われても納得してしまいそうな言葉だが、わたしの知る限りではそんな曲は存在しない。そんな曲が存在しないことすら起こってないというただそれだけの可能性をわたしは自分のなかで打ち消した。それでも日々に何かが起こっていたという実感は残っていない。わたしは座り心地の悪いプラスチック製の座席で雑誌のそのページをいちいち定規をあてることもなく切り取った。クリアファイルあるいはまた別の雑誌のページに挟まれながら、何も起こらない日々の中でその切り抜きは順当に存在し続けた。<br />
　何も起こらない日々だった、というのはもちろんのこと誇張だ。<br />
　少しは何かが起こっていた。確実に何かは起こっていた。それでも人生とか世の中とかという言葉で十分に均すことが出来る範囲のものごとだ。感覚のバックグラウンドノイズだ。退屈というものを対象化するまでそれを理解することが出来なかった。退屈は時間の比喩だ。音楽が鳴り止んだ時にそこに静寂が残っていることは分かる。心臓がその鼓動を止めた時にそれを確かめることは出来ない。ひとつは空気の振動でひとつはコアな生理現象だ。その対比を単に採用するのならば、前衛音楽の評論で見かけそうな文言だが、静寂を再定義することは可能そうだ。それが静寂であるとは判断できないような。大学には通わず繁華街の外れの少し気取ったサロン兼レストランで職を得た。何であれアルバムを一日に二三枚は聞き通し、たまに読書をした。そんな日々のある夏のどこかだ。夕方だ。</p>

<p><br />
2</p>

<p>　ある春の部屋ですべてが目を覚まし伸びをして届かぬ天井の高さを両腕で測ろうとする。</p>

<p>　土曜日の朝、日光が触れるものを濡らすそのなかに座って僕らは居る。床に小川をつくる透明な光りの色に塗り分けられた室内の中空を空気の滝が流れ落ち、物音のしない濁流の内側を埃が泳ぐ。<br />
　その濁流に呑まれるという可能性などまるでそこにないかのように、ただ光りにすかされた空気の滝の表面や窓に近い深部で様々な色形をしているはずの埃が泳いでいる。理由のない喜びのなかを形もなく舞っている埃の欠片の一つ一つが、そこで空気が朝の光に溺れているのだと教えてくれる。その光と陰により定義された滝から空気が流れ出して、空気が僕の体を濡らす。僕の血液が酸素で濡れていく。僕の呼気が二酸化炭素で濡れる。湿度を保つ。物質の性質は印象のなかで変わり、人間の鼓動がそれを追いかける。僕は人間である自分の鼓動を追いかけてここにあり、ここにたどり着き、またここを離れ、そして再びここに逗留しようとしている。ここがここでしかないのならばここというものを別のものに言い換えるだけで別のところにいることができる。その逆もまた真なのだけど。<br />
　その土曜日の朝の光景の中で、僕とすべてはただ呼吸することにより形ないものに印象を与える。そこにある空虚をかつてそこにあった空虚と見比べる。ないものとなかったものを見比べる。自らを埋めるための空白を掘り出す壁紙の模様やそれにある程度沿って配置された家具や積み上げられた雑誌の束が朝の光のなかでまるでないもののようにそこにあるので、僕はそれらが実際にそこになく、僕自身もここにいなかった時のこの場所のことを普通に思い出そうとしながらすべてが飲む珈琲を淹れるために食卓の椅子を離れ、湯沸かし器のスイッチを入れる。まだ自分がいなかった頃のこの部屋の光景、それが何故だか自分の記憶に含まれてあるように感じる。<br />
　すべてはそこにいるようでそこにいない。けれどもそこにいる。そのような女の子で、僕が自覚的にそのように発言している場合とこれを単なる文字の並びとしてみなす狭間で失われるものの正体を僕は多分現実と呼ぶ。<br />
　すべて。<br />
　彼女は誰からもそう呼ばれていて、それが彼女の本名だ。免許証や保険証にもそう記されていたのだからきっと本当にそうなのだろう。二文字の漢字からなる名字が、すべて、という平仮名の前に付いて、その二文字の漢字を二つ三つから五つくらいまでの平仮名あるいは音節に開いた時に現れる見えないもの、だから単にそれは現れないと言ってもいいのだが、そんなものを僕は多分虚構と呼ぶ。だから僕にとって虚構というのは存在しない。そのように言えることが虚構でなくて更にこれが単なる文字の並びであることのあわいに生じているものを僕は単に現実と呼ぶことは先に述べた通り。<br />
　半開きのカーテン、ベッドから半歩離れた場所に置かれた卓上のオーディオ機器、床にだらしなく散らかったCDウォレットや昨晩の着衣が動かぬまま喜びのない喜びのなかで印象と僕とを結びつけ、そのように修飾された部分ばかりが強調されてそればかりが静止した現在として見えている。微かに響く階上や階下からの生活音、音もなくフィラメントを燃やしながら日光に染みいるナイトランプの光り、その光りに含まれる静寂が寝起きのすべての所作により修飾され可視化されているかのようだ。そしてすべてを背後から見ていることのぼうっとした目眩が修飾された現在と僕の感じている時間と人生が連結するさまに映り込むさなかに別の階の誰かが金属製の扉を閉じる音が割り込んで視覚と聴覚との別が一瞬消える。その区別が消えた長さ、それが一瞬だと分かる。<br />
　「今日は何日だっけね」<br />
　とすべてが訊ねる。<br />
　「十八日」<br />
　と四月に僕は応える。<br />
　「今日はどこかに出かけようよ」<br />
　すべてが言う。<br />
　互いがそれぞれ持っていないプレイン・ベガスのアルバムを貸し借りすることによりすべてと呼ばれる女の子と僕は親しくなった。飲みの席で一緒になり自然とプレイン・ベガスの名前が場に出されたのだ。あとはプレイン・ベガスの音楽性のみならずメンバーの奇抜なパーソナリティや各アルバムが収録された折の逸話、個人的な伝説として分類されるであろう規模の物語について話していることを両人とも心得ていることをいつも目前にある話題として追いかけながらそれについては触れずに話し続けた。決して見えない先があった。あるいは少し先の未来から自分を振り返っていた。<br />
　ラスベガス郊外出身のバンドであるプレイン・ベガスの楽曲「ノータウン・レコーズ」は四十のフラグメントに分割されていて一つのフラグメントは十八秒のあいだ持続しそれが続け様に演奏される。彼らが自らその曲に触発されて制作した『トーキン・ベガス』は四十五秒のフラグメントが六十四個並び、その一トラックのみが収録された四十八分のアルバムである。どちらの作品でも勢いだけは必ず保たれてある。『トーキン・ベガス』はアルバムを通してメドレー形式で構成されていてアルバム全体での構造も考え抜かれている。<br />
　またプレイン・ベガスは「ノータウン・レコーズ」をライヴで演奏する際に「シャッフル」と呼ばれる他のバンドには見られないメソッドを生み出した。すなわち、十八秒ごとに区切られる四十のフラグメントをメンバーが各自毎回ランダムな順番で演奏するというものだ。<br />
　そのような終わりがない話を始める人にありがちな態度というものがあるとどこかで思っていて、それ以外のことはどうでもよくなることがある、とすべてが僕に話すことがある。でももっと繊細で現実的な問題はどうするのかという僕の指摘をすべては無視という態度で受け流し、彼女が空腹かどうか訊ねることにより僕はどうにか彼女の注意を少なくともより繊細で現実的な方へと手繰る。今は朝食の準備をしようかと言う時刻だ。<br />
　一瞬、だとか、瞬間、だとか言うとすべては身を強張らせる。とてもすべてらしい態度だ。<br />
　すべてには瞬間の長さを測ろうとする奇癖があった。<br />
　瞬間量を計測する。知る限りではそのための技術など存在しないし、知る限りのものはそのようなものの存在を迂遠に暗示している。だけれども「この街は人々が解凍あるいは解答した瞬間量の総和で構築されています。そしてそこでは起きなかった場面が今日もまた今日のように繰り広げられました。何かの場面がただ起きなかったことを知っている人々がただそこにいて、それは起こりもせずに過ぎ去ったのに何故か不吉に感じられました。その人々はそれらの物事がどのように起きなかったのかを知ったのかを仔細な注意のなかでいつも見つめていました」というアナウンスを僕らが耳にすることは果たしてない。<br />
　静止の中に瞬間を見出す、というのはすべての言葉で、実際にそこで何が起こっているのか知りたいかと訊かれたら僕はきっと少し迷う。迷う自分を笑う。すると向こうも笑う。<br />
　瞬間の量や値を計りたいなんていう大雑把な目標は日常の営為として噛み砕いて処理していく他はない。僕らはひとまずそんな方針で今の暮らしを続けている。生産性を積み上げて物質としては存在しない影の嵩を足していく。僕らのあいだには何となくそのような了解があった。そのようなこととして生き続けて、今ということになっている場面の片隅で思い出されているのも自分で、時間の角度とそこに含まれる場面を意味のキャンバスに区分けする架枠の角度が奇跡のように一致し続ける。それは現実の地図のようにしてそこにある。地図はあくまでも地図であるとその地図は僕に幾度も諭す。たとえそれがそれ以外の見方の分からぬ地図であっても。<br />
　「だからそれはそういう見方なんじゃないの」とすべては言う。<br />
　「その方向には逃げたくないんだ」<br />
　「まるで逃げられるかのように」<br />
　「どこでこんな話し方を覚えたんだろう」<br />
　形のない食卓で形のない朝食を平らげながら僕は言うのだ。形のない部屋のなか、形のない体の内側の形から体の形を類推しながら。空気には形があり音を通わせ積み上げられた雑誌の揃っていない角だとか部屋の細部を削りだす。僕らもまた瞬間毎に空気から削り出されている。僕が語ろうとする朝食の机には形がない。それが形を得る頃には時間の方が失われている。<br />
　早くもその話題に興味を失ったすべては爪をいじり始める。わざとらしく目を細め、椅子の上に抱えた両膝のうえで左手の爪を右の人差し指と親指でなぞり、どこか対称的な姿勢を取っているすべてはいまその外見の内側で人生という形のないものから瞬間を削り出すということを何となくやっているのかも知れない。もちろんこれは僕が過ごしている瞬間の一コマで、自分が瞬間を過ごしていることを知りそれを告げようと思い至るまでが瞬間で、それだから僕は正しく話し始めることがいつまでも出来ない。でもそれと何も話さないでいるということの間には何の関係もない。僕は右に捻った頭を左に回す。そのせいで彼女が僕のもみあげの長さが左右で違っていることに気づいて、それを指摘する。僕らはそのように瞬間の計測というものを噛み砕けないかと考えているのだし、まず、お話というのはそういう風に成り立っているものだと合点している。ある目的によって区切られた時間が記憶の区分となる。<br />
　子供の時分の顔写真といまの自分を結びつける物語は一様ではなく、様々な逸話が紛れ込み、慣習に均され、意外性を削ぎ落とされたある程度一般的なもののように自分の記憶がそこにある。だから僕は同一性を確保するために常に誰かや何かに何かや誰かを預けながら生きている。そこを放棄して記憶を保つことなど出来るのだろうか。その交換の過程の別の側面が一般的にいう記憶ではないのかと、プレイン・ベガスの誰かが言っているのをいつかどこかのインタビューで読んだ。あるいはそれはすべてがクリアファイルに入れて持っていた洋雑誌の切り抜きに掲載されていたものだったかも知れない。あるいはそれは何かタイポグラフィーが配置された空の写真だったかも知れない。<br />
　爪を検めているすべてをしばらくのあいだ見つめながら、自分がすべてを見つめた過去などそこになかった振りをする。そして自分が知っている、爪を眺めている何十秒かのすべてとその時間とその見え方に関する知識を、何らかの規則に従って導き出したものとして考える。その規則を目の前のすべてにあてはめたときにすべての携帯が鳴りはじめて、すべては機械を片手にファインダーの外に出て行く。<br />
　すべてがなくなった視界に僕は先ほど導き出した規則を適用し続ける。そして僕が描画するすべてに関する透明な計算の姿を、携帯電話を片手に戻ってきたすべてが空いている手で軽く払いのけ、僕らはより繊細で現実的な朝の光景の続きを執り行う。それまで繊細で現実的な朝の光景を執り行っていなかったかのように。<br />
　行動は常に過去に含まれている。僕が突然にそう呟いたとして、すべては二三呼吸置いて何か議論を整える一言を場に置くだろうし、言葉の形が分かっているから手持ちの語彙を積み上げていくための独善的でならねばならない作法を心得ているかのように話す。話題に関する記憶から己の過去の感情が蘇る。どこかのディナーテーブル、長距離列車のコンパートメント、がらがらのエコノミークラス、蔦が下りる小さなバルコニーテラス、それらの場所を踏む靴のサイズ、どこかでいつか確実に他の方法で成型されたことのある筈の光景を借りて、言葉を聞いて言葉を返し分解して言葉を交わす、となる。言霊というものがあるとしてそれはそのように蓄えられていくもののような気がする。言葉が記憶であり記憶には場面が必要ならば、場面から場面を貫く言葉と場面が実際に良い感じに古びているという感覚。個人的な妄想であることを越えない範疇でそれは共有されたものとしてある。<br />
　完全な速度で時間が流れていく街。空の完全な青の猛威を緩衝している商業地区の建物の屋根の縁、そこから覗く空、あるいはまるで空を覗くために敷き詰められたみたいな町並み、どこまで行っても同じ天気で。<br />
　存在していないものを扱う折りに自分が存在していることを意識する。その差分を絶えず意識することだよ、とすべては僕に告げて、わざとらしく珈琲を飲み干すなり議論終了の合図を寄越すだろう。もちろんそれは僕の妄想のなかだからすべてはそうしているのであって、実際にそのように告げるのは僕の方だろうし、そしてすべてはそのことを分かっているから僕がすべての知恵の過程を充足させているという見方も出来るしそれでも彼女が正しいとは限らないという前提に立ち得るからこそ僕はこうして話すことができている。付け加えるならばこれは自分を否定するための陳述だ。目的はなく意味なら見つけられるかも知れない。それは他のすべてについて言えることだけれども。<br />
　そのような当たり前のことをさも何かを悟ったかのような調子で抜かす僕がそもそも不毛であるとすべての裁きが下る。<br />
　で、その最後のやつは朝食を終えた後の在り来たりの朝の光景のなかで実際に起きる出来事だ。</p>

<p><br />
3</p>

<p>　空が全方位に向けて広がっている。足下の惑星が消え去り何故か大気だけが残って空ではなくなった空が空であった色を変えず現在形の空の色でそこにある。足場のないパノラマ。自分はそのけったいな空間のどこかにいて、足場がないのに落下もせず、浮遊しているというよりかは単に静止している。<br />
　太陽は存在せずただ光源の方向は設定されていて、寝そべっているような、あるいは直立しているのかも知れないが、そんな姿勢のまま振り返るとそこには小さな夜空がある。それはそれで見るからに荘厳な風景だ。いったい自分が何を基準にして何かが見るからに何かに似ていると判断できるのかわたしには分からない。わたしが知るのはこの場面だけだから。ここには何の文献もなくどこにも接続されておらず、ここにはそもそも端末のような便利なものはない。わたしには記憶などないはずだ。<br />
　普段着のままわたしはそこに浮かんでいるのだが、その服を普段から着ていると考える自分の中の基準が見えない。わたしはただその場面をそのように思い返すのだろうなとだけ考えていて、そこから自分の記憶も同じようにして導き出している感すらある。わたしは自分をこんな記憶を持った誰かとして思い出すのだろうな、と。そのような考え方をする誰かとしてわたしは自分のことを思い出しているのだと、この場所においてはわたしはそう考えざるを得ない。そうでなければまずこんな場所で自分が記憶を持つことの説明がつかない。<br />
　これが地球の空であることをわたしは知っている。それがこんな空であったという記憶がある。わたしはその色をこのように思い出すだろうと理由もなしに考えている。自分がその色を忠実に、深長な箇所に至るまで覚えていることを心のどこかで誇らしく思っている。空の要点と冗長さの両方が慎み深く再現されている。あるいは記憶されている。<br />
　わたしはこの場所を見ないで見ている。<br />
　わたしは自分の記憶であろうと思い出している何かとまた別の何かを結びつけ、それをまた別の要素を結びつけ、反復ではない連鎖を辿り、ここにないものすべてを文字通り通過したあとでわたしはこの場所をこのように思い出す。それ自体以外は無駄を省いたものとして。わたしが冗談めかしそのように言おうとしているのはきっとそれすらも不可能だし、そもそもが意味のない陳述であると思っているから。<br />
　かつてのわたしは最早ここにないすべてのものを論理のように経てこの空を導き出し、今のわたしはそれを自分を含む記憶として取り扱っている。自分がその記憶の末端にいるのだと考える隙があるのならばわたしは自分がそのようなことをしていると気づく筈だ。記憶の内側ではなく現在に生きる身として。このように記憶と現在を同じ時制で語ることに座りの悪さを感じる。<br />
　わたしが自分が記憶であると認識しながらその中に存在する全方位に向けて開いているか閉じているかする空の光景へと戻る。いまその記憶について話しているここがどこかは分からない。いつかはわたしがわたしに届くことがあるのかも知れない。こうして話し続けているうちは普通に無理だろう。わたしは自分が何かを語っていない時の自分を語らなければならない。まずはそう思う。単に自然な成り行きからわたしは自分がそう思うと分かっている。そしてその理解のなかからその陳述を取り出す。そしてそれに対する反論をすぐさま用意する。わたしは何かに反論しようとしていたのかも知れない。ならばそれがまず当初は肯定的な何かであったことを望むのみだ。だから空くらいは残ったのかも知れない。<br />
　空の話に戻る。正確な値を知る術はないのだがわたしは静止している中空の温度は摂氏十五度から二十度のあいだで保たれ、快適なのだが時に少し寒い。何かが暖かい風を吹かせてくれることもある。汗をかくことはなく、それとは別に服が汚れることもどうやらないようで、空腹感も時折訪れるが、そのたびにわたしはそれを忘れていく。それが繰り返して、自然の呼び声に応えた記憶もない。環境や肉体や自分といったものはこの場所では単純化されていてわたしはその単純化された要素の一つ一つを挙げることができるけど、その手間を省くためにそれはそのように単純化されているはずなので列挙は止めておく。信じてはもらいたいが、自分が本当の話をしているという確証はない。<br />
　わたしは自分が砂の雨を待っていることを知っている。いずれわたしはその砂の雨が作る砂漠を渡る隊商の娘となり活発な少女時代を過ごすことになる。わたしはそのような過去をすでにこの場所で持っている。だからわたしがいま話しているこれはつまり何かが巡り続けるお話に違いない。そして巡り続けた時間が摩耗してこの空だけが残ったのかもしれない。わたしは砂嵐を待っている。それがどこでどのようにして堰き止められるのかわたしには見当もつかないのだが。<br />
　時間が過ぎるのを待つ。<br />
　全方位に向けて広がった空に時間が淀む。宇宙空間に恐らくは地球の周囲を被っていたのと同半径の大気が淀んでいて、そこのかつての地表があったのと同じ座標に、どのようにかして計測され保存されているその座標にわたしは浮かんでいる。あるいはその場所がかつての空であったなら、と心のどこかで考えている。わたしが持たないまだそこに存在しない計器はそこが海抜二百メートルそこらの台地だと教えてくれる。<br />
　自分がいつかそう思い出すのだろうなと考えている空間のなかで、わたしはまだ起こっていない過去の記憶、あるいはすでに起こってしまった未来の記憶をそのようにして弄んでいる。この場面もきっとそのようなものの一つなのだろう。まああれこれ話す上で時制に対してもう少し注意を払うことは出来るかも知れない。<br />
　街、交易、夜営、胴体の両脇に滴の形をした布袋をぶら下げた騾馬の果てしない隊列、圧倒的な細部、何百本もの奇蹄目の足音、その足が布袋を揺する音。光り、景色を切り取る角度によって生じる陰、それらが暑さでどろどろに溶け合うなか乾燥した風が吹き動物たちの足下の砂を転がす。圧倒的な状況、圧倒的な暑さ。水筒、頭を被う布、直射日光から体を守り続ける。イメージが散見し、それに纏ろう説明がわたしの情報処理能力を超えて直接理解の方へと叩き込まれる。それらが自分の内側から沸き上がってきたものかそれとも自分を包み込む外的な状況なのかを測ろうとしている。測ろうとしてそれが起こっている時にそれに追随する場面が続いていく。そうしてどの瞬間を測ろうとしていたのかをわたしは見失う。言語化されないその思いはなぜかわたしの胸を痛める。そうして言語化される前に意味の取り違いが起きていることをわたしは非言語的に理解している。<br />
　これは砂漠を渡ろうとしているわたしが見上げた空かも知れない。虚空で静止し、普段着を着たわたしは思う。この場所がいつか砂漠となるならば今のわたしの服装では難儀するだろう。それで隊商に混じる自分がどのようにして適切な旅装を手に入れるか思いを巡らせる。それから隊商に混じるのは少女時代のわたしであることをわたしは思い出す。いまのわたしの外見を確かめる術はないのだけど掌や手首の皺などを見て二十代半ばから三十代前半だろうと当たりをつける。おそらくは極東の島国のとある娘と見分けがつかない中央アジアの娘。極東に住まう方のその娘はいずれわたしの生まれ故郷近くを訪れる。単に視覚的に見るのならばそれがわたしであると考えていけない理由はない。だがその時点ではわたしは既に死んでいる。それでも単に視覚的に言えばいまわたしがその娘であると考えていけない理由はない。わたしの氏族はそのようにして歴史の画像的な表層を伝いながら生きながらえて来た。<br />
　光景から光景を経てただ消えていく。ひとりの女の姿を辿り、起きた世界と起きなかった世界を結びながら生きる氏族。わたしがそれらのすべての場面にいる現実など存在するはずがないから。互いに見知らず、それぞれの場面の映像的な表層を流れる同一性を共有しながら違う歴史を生きている。それらの場面はすべて同時に存在する。同時にすべての世界が不可能である。これはわたしがここにこうして存在することと矛盾しない。わたしの過去や未来や現在は他の歴史においてすでに同じように達成されているから。偶然わたしの過去や未来や現在と見た目と同じくする光景が存在し得ることにより。わたしはわたしの存在に対する不可能性を文字通り抵当に入れてそのように存在していることになる。もしそのような氏族の存在を信じるのならば。もし、という言葉に時折ちらつき、単にそのようにして垣間見ることの出来る、自分がそのような氏族の一員であることを何故かわたしは知っている。<br />
　</p>

<p>4</p>

<p>　土曜日。地表に空を受け止められた空は青くそれが人ひとりの体にも収まる焦点が必ず存在するはずだ。何もない空を目蓋の裏側で受け止めているその人影が毛布を体に巻き付けるようにして寝ていたベッドのシーツは深い紺の背景色で手前には何もない。灰色の毛布の、その場に限って果てなく広がる表面の毛羽だけがすべての体温を隠している。<br />
　午前中いっぱいを僕らはのんびりと過ごす。雑誌のページがめくられ、動画や音声の種々のコーデックが然るべきプラットフォーム上で再生され、賑やかな時間と静かな時間が同時に流れている。主に過去から記憶が流入して、また別の部分は記憶として他の場面へと流れ出していくのだが当然二人はそのことには気づかない。だがもしどちらかがそのことに気づいていたのならば、その時間の記憶が過去に向けて流れていくことも可能であると考えるだろう。そしてそれは言うまでもなく当たり前のことなのだ。これから午後の一時くらいにかけて外出の準備を整える。四月の土曜日。まだ少し肌寒い。晴れ。午前十一時十五分。いくらなんでも正午を三十分回ったころにはでかけられるのではないかと僕は踏んでいるのだが、なんやかんやといいながら出かけるのは午後一時半くらいにはなるだろうと彼女はきっと思っていて、その両者の予測の差分である一時間、その一時間に起こったできごとがこの章の内容だ。<br />
　休日だ。様々な曲を聴く。<br />
　ある録音された曲がその長さでなければならないこと。<br />
　コンピュータのライブラリでのざらしになっていた曲をランダムに再生する。そして再生される曲のその長さと、その長さの根拠を注視する。その行為を経て僕が音楽について何かを理解することはないだろう。むしろ分からないことが増えるだけだ。<br />
　問題を設定するたびに僕は相対的に無知になっていく。そのことで慌ててる自分が馬鹿なのかこれまで慌てなかった自分が馬鹿なのか、そのようにして僕は再度自分の無知を確認する。でもそれはこのように言葉で空白を囲ってみた結果生じた無知であり、その空白とそれに対する無知はきっと相殺し合うだろう。そのようなピクセルが休日の午前中を過ごす僕らの表面を丁度縫い合わせて、奥行きを持った時間が果てなく横滑りを始めるその契機を見つける。<br />
　休日の朝のBGMはいつもすべてに任せてあった。僕の側にはそのような取り決めを交わした記憶はなかったがすべての記憶に関しては分からない。その朝はオーディオ再生ソフトのライブラリに収められた曲がランダムに再生されていただけだったが、大抵の場合はすべてが選んだ二三枚のアルバムを通して聴く。ある一枚のアルバムがその長さでなければならない理由については僕もすべても何となく理解できる気がしていた。だがある一曲がなぜその長さでなければならないのか、二人とも言語化された解釈は持っていなかった。問題の全体像が把握できないが故にそのそもそもの質問の概念を保つことさえ難しかった。<br />
　前奏、Aメロ、Bメロ、コーラス、間奏、Aメロ、Bメロ、コーラス、間奏、Cメロ、コーラス（転調）、後奏、など例えば一つの楽曲の様式が要求する構成はあり、そのそれぞれの部分がある程度の時間の幅を必要としている。だからひとつの曲は決められた長さを持つ。それが理由の一つであることには違いない。けれども既にそこにそのようにしてあるものに対してそれとは別の積み上げ方を僕とすべては探していた。けれどもそれを解体することなく単体でそこにあるものをどのように積み上げるべきか。<br />
　「だからある曲っていうのは何かが積み上がったみたいな構造を持っているんじゃない。そんなところで意味不明な疑問に陥らないように」<br />
　すべてがそのように言う。<br />
　すべてはその陳述の後者を生むに至るわだかまりをまず感じて、それを補強するために前半部分を捻り出しているのではないかと僕は疑っている。すべてが感じている違和感を正すために。たぶんその判断は両者が言語化されるよりも前に行われていて、話の順序が噛み合う目処をつけてすべては話し始める。どこかで論点は失われて何かの描写だけが続くようになりすべてはいったん口をつぐむこともある。その後に残る沈黙が何かを描写し続ける。すべてはその意味に対して耳を澄ましているのではないかと僕が考え始めた時、<br />
　「その描写が失われたとしても話が噛み合う順序だけ残ればいいのに」とすべてはこぼす。<br />
　「それで何かが伝わればもっといいのに」とすべては続ける。<br />
　まずそれを伝えることができればいいのに。<br />
　僕はそう付け加える。<br />
　すべては時折そんな文句を言うことがある。そんなに頻繁にではない。実際のところ一度だけだ。そのようなことをいうことがあるすべてが一度だけそんなことを言ったことがある。<br />
　「それでみんな話の順序だけ覚えるようになるの」<br />
　その土曜日の朝、すべては唐突に自分の過去の陳述にそのように付け加える。すべてが突然にそのようなことを言い出すので僕はそれがどのような順序の話なのかついてゆけない。どこか違う話のなかではそんな話の順序が正しいこともあるのだろうと考えて気を落ち着かせる。それにすべてが言っていること自体だって分からなくもなかった。例えば、すべて風に言えば、僕はそのような話の順序をそのように理解している。<br />
　どこかの話の順序のそんなどこかで、すべてと僕は瞬間の長さを測ろうと奔走していた。あるいは奔走などとは全く無縁に、物事が静止してその向こう側か手前の意味さえもが透けて見えるような一瞬を引き留めようとしていた。瞬間や一瞬と一般的に呼ばれるのは後者の方だと僕もすべても分かっていた。<br />
　不思議なことだ。すべてと僕はそのようなあくまで抽象的な問いにこだわり、その問いを通して見えるものをどうにか保存しようと努め、事実として描写可能な自分たちの営みの方を保存しようとはしなかった。つまり僕には日記をつける習慣はなかった。知る限りすべても日記はつけていなかった。日々の出来事を逐次的に書き付ける習性があればいずれはそこに瞬間の思い出が記されることもあるかも知れない。それでも結局僕らがその日記を通して見つけるのはその帳面に顔を付き合わせている時間の切れ端であり、かつて確かにそこにあった時間そのものではない。帳面との対面という経験のなかにも瞬間は存在する。けれどもそんな瞬間は当たり前のようにどこにでもいつでも存在している。凡庸さと真逆の性質を持つために凡庸であるとの皮肉しか通用しないくらいに。<br />
　瞬間とやらは僕やすべてがそれが起こっていることに気づいていない時にだけそこで展開していると僕らは考えていた。その余韻だけがいつも残り、その余韻は破裂の予感へと転じる。やがてこれまでに蓄えた瞬間量が一定の閾値を超えた時に何かが弾ける。懐かしさが弾ける。弾ける懐かしさ。そんな戯言をすべては一笑に付す。ともかくこれまでに人生の時間を重ね、溜まりに溜まった懐かしさが弾けたその後に何が残っているのか。僕たちはその何かが何であるかを知りたいのだと思う。その過ぎ去った懐かしさを懐かしいとか感じることになりながらも。<br />
　「馬鹿みたい」<br />
　すべてはその瞬間にきっとそう言うのだ。<br />
　それが僕の手がかりのすべてだ。<br />
　その発言がすべてがその身を置くどのような順序の話に含まれるものであれ。<br />
　そんなことを言うすべての髪の毛を僕は指で梳いている。床にあぐらをかいている僕の脚にすべては頭をもたせかけ雑誌のページをめくっている。その背景では音楽が流れてある。すべての髪の毛にはいつも砂粒がひっかかっている。すべての髪の毛を手で梳くと砂粒が日々の出来事のように指や掌に触れる。オルゴールの真鍮のシリンダーにどこからか吹き寄せられてランダムに吸着したような微細な突起みたく、皮膚に触れる砂が僕の指を僕の心のなかで鳴らす。<br />
　それらの砂粒に触れるたびに僕の指は音階を感じ取るが、それがどのような音色で発せられるものかを僕は知らない。僕はその音階や音色を手触りとしてだけ知っている。すべての髪の毛から砂が零れて床を打つたびに乾いた音が僕の耳に届く。あるいは僕が音階として感受した砂粒がもつれた髪の毛から解き放たれてやはり床を打ち、僕が感じた音階とはまるで関わりのない音を立てる。<br />
　指で感じた音階に合わせて僕は何かを口ずさむ。指先ですべての髪の毛を撫ぜるその振幅に合わせて僕は呼吸する。呼吸のタイミングで発話が止み、また始まる。何かを謡じているのではなく、ただ思いつくままに話し続ける。どこかで誰かが聴いたことのある話を。どこかで誰かが話している話を。誰かが話しているその話を自分が話すことによって自分がその誰かについて話しているかのように感じさせる話をそのような作法で話し続ける。人差し指と中指のあいだをすべての髪の毛が潜り抜けてそこに絡まる砂粒が皮膚に触れる。その時に僕がすべてに話そうとしているのはその感触についての物語だ。日々のように際立つ砂が点々とリズミカルに触れる。四月の陽気が存在しない遙か遠くの砂漠の余韻のように響いている。僕の話す物語もやはり僕の口から零れて床を打ち、まるで馴染みのない音となって僕の耳に届く。<br />
　これがこのように現在形で語られている以上これは設定されたあの虚ろな一時間の中での自意識かもしれない。僕は単にそのようにして風穴をまた別の風穴として更新し続けたいだけだ。それらが別の風穴であるという希望的観測の根拠らしい根拠は煎じ詰めれば文法と語彙、規則と意味しかなくなる。例えば。あるいは伝達の用を離れた時になお文法や既存の語彙を保持し続ける理由を探しているようにも思える。<br />
　風穴からズームアウトして朝の光景へと戻る。当然それもまた別の風穴から顔を覗かせている形だ。いつのまにか音楽が止んでいるのですべてが曲を選びに立ち上がる。それは律儀なありかたなのだと思う。その事を考え終わる前だか考え始める前にすべてが戻ってくる。四月の空中に部屋が落ちていて自分がここにいるのは偶然に過ぎないのだと五六秒信じ込む。それならばそう考えてるのも偶然に違いないのだと七秒目に思いつく。そしてそれは論理的には必然なのだと八秒目に補則を入れる。でもそれもやはり偶然に過ぎぬのだと九秒目に目を細める。そのまま偶然に眠ってしまいそうだったので十秒目に目をこする。いや十秒目には間に合わず目を擦るのは実際には十一秒目から十二秒目のことだ。十三秒目から十四秒目にかけて指をすべての髪の毛にあてる。すべてが十五秒目にこう話し始める。僕がその意味を解し始めるのはある一つの曲が始まってからおよそ十六秒目からだ。<br />
　すべてに瞬間の長さを計ろうとする奇癖があるように、僕はあらゆる音楽のなかに女の姿を見出す。そのことをいつかすべてに話したこともある。<br />
　「あなたが生まれてこのかたどんな曲の中にもわたしの姿を見つけてきたのならば、それらの曲を書いたどの人もわたしの事を知っていたことになる。それが弦楽四重奏でもビハップでも盲目のギタリストが奏でるカントリーミュージックでも。あなたは最古の曲はわたしについてのものだと思っている。それから時代を超えていつでも。あなたはそれらを作った誰もがそれを知ってると気づかなかったことを探そうとしているのね」<br />
　土曜日の朝にすべてはそのように話し始める。それがどのような順序の話に含まれるものか僕は合点する。<br />
　「それだけじゃないんだ」<br />
　「でもわたしその誰もがわたしのことを知らなかったことを知っている。わたしは彼らがわたしのことを知らなかったことを覚えている。その意味は分からないまでもわたしはそのことを知っているし覚えている。忘れているときでも知っていたし、知るためにはそのことを忘れなければならなかった。そんなことは知らないんだけどとにかくいつでもあなたみたいな人の横にいたわたしについて、あるいはそこにいないことによりそこにいたわたしについて誰も何も知らなかったことをわたしは知っているし、それと同じようにわたしは今でも思い出している。いまこうしてあなたの側にいることを」<br />
　感情のこもらない声ですべては言う。あるいはそのような事を語る女と僕は背景音楽の中で出会う。感情がこもっていないからと言ってそれが虚偽だとは思わない。そもそも感情はある程度は虚偽だ。それが掛け値無しの本物であればあるほどに。ある程度は。<br />
　「もしあなたがいまわたしを見ているのならば、これは音楽でなければいけないのかも知れないじゃない」<br />
　僕に対するあてつけですべてはそんなことを言う。<br />
　これは変な話なのだ。何故かと言えば、想定された二つの出発可能時間の差分の一時間の出来事を僕が空想していると言っても、僕が自分の予測通りに午後十二時半に外出できたとしたら、すべては一時間をひとりで過ごすことになる。そこに僕が登場するのはおかしい。だからこれは午後一時半までかけて支度をしているすべての空想なのかも知れない。</p>

<p><br />
5<br />
　　<br />
　夜空のなか地表に背をもたせてわたしは星々を見ている。少し酔っている。ほんの短いあいだだけ眠ろうとしてやがて甲斐なく立ち上がったわたしは町の外れの少し草の生えた傾斜で夜空を背に立っておりその時のわたしの視界の下半分を砂漠季候の平原が埋めている。長袖のTシャツを二枚着た上に革のジャケットを羽織っていたから体は冷え切ってはいない。自分がそれほど長いあいだそこにいなかったことをわたしは思い出す。観光で訪れた集落の酒場で少し飲み過ぎて酔いを覚まそうとして十分ばかり歩いたところから緩い傾斜を下り始め、人工的な光りが見えなくなったところであおむけに倒れ少しばかり眠ろうとした。<br />
　腕時計を見てまだ日付が変わっていないことを確認する。<br />
　服に纏う砂を払いわたしは人里に向けて歩き始める。それは中央アジアではなく、アメリカ大陸西部モハベ砂漠の縁に位置する田舎町のその外れでのことだ。レンタカーはホテルのパーキングロットに停めてありジャケットの左ポケットにその鍵が入っている。ホテルの部屋の鍵はフロントに預けた。ホテルと言っても古い民家を改築してどうにか体裁を整えたような安普請で、カウンターの内側でわたしを出迎えたオーナーと思しき中年の男はフロントの真上の部屋をわたしにあてがった。<br />
　酒場ではまだ同じ音楽が流れていた。さっき初めてこの店に入った時にはわたしはその店のオーナー兼バーテンダーが時代物のジュークボックスを二十一世紀のその始まりの十年の終わりに至るまで保全していることを若干の賞賛を込めてからかったんだった。ジュークボックス。まだそこらで見かけるものにせよ、その名称自体はほとんど冗談みたいな響きを持つ。それを言えば自分がネバダの縁の田舎町のバーでドイツ製のきちんとレコードを筐体内に収めたジュークボックスのことをからかっていること自体がまるで冗談のことのようだ。冗談みたいだから冗談のことのように感じられるのではなく、あまりにも常套句的だからそれは冗談のように感じられる。冗漫に区分けされた記憶に流れ込む事物に関する曖昧な認識を経て、あるものがそれ自体であることが誰にも無関係な一つのギャップとして際立つ。<br />
　バーでかかっていたのはプレイン・ヴェガスの曲だった。プレイン・ベガスがベーカーズ・フィールド以北で活動したという話は聞いたことがない。プレイン・ベガスは成長著しいラスベガスの裾野に棲息しているごくローカルなバンドで、アリゾナのレーベルとの契約がありその音源は日本にも輸入されているしネットで彼らの楽曲を視聴することだって勿論可能だ。その音楽性はプログレッシヴ・ポスト・ポスト・ロックンロールと言ったところの折衷的なもので、演奏は様式的かつ躍動的であり、反復から展開へと転じ、展開そのものが一つの図形的な構造を持ち、時間あたりでも各楽器パートのレイヤーが当たり前に確認できる。ある一つの曲はそのように何かが積み上げられたような形をしている。<br />
　彼らの中期のアルバムに収録されている「ノータウン・レコ—ズ」という十二分に渡る大作では全く別の四十曲がそれぞれ正確に十八秒と端を揃えて続け様に演奏されていてグルーヴが途切れることがない。持続していて何かを聞き取ろうと曲をリピートするけれどそれは単に消えることを繰り返すだけだ。誰かがその曲を聴いているあいだ、またプレイン・ベガスがその曲をライヴ演奏するあいだだけ何かを呼吸させるために彼らはその曲を書いたのだと浮ついた事を言う人もいた。その言い分も分かったけれども、呼吸を捉えると言った方が正確だと思った。<br />
　一秒間を幾つに分割するか、十二分間を幾つに分割するか、一秒間にそうするよりも大まかに十二分間を区切ることを並行して行うことは可能なのか。十八秒で次から次へと曲が展開していく「ノータウン・レコーズ」を聴きながらわたしはそんなことを考えていた。<br />
　総じて彼らのサウンドプロダクションからはエレクトロニックミュージックの原衝動への眼差しが感じられる。重ねて彼らはロックンロールの荒々しさとメロディとを素養として持つ。リリース用の音源を録音する際には機械でプログラムされたドラムセットが使われるが、ライブアクトの際にはそのドラムのレイヤーのプログラムを担当した張本人であるダニー・フィルムス自身が、シーケンスされた通りのドラム譜を実際のバスドラムやスネア、タム、ハイハットやシンバル等からなるドラムセットを使って演奏する。ライヴならではの即興的なフィルが各所に入るがそれがリリース音源に収められている分の音を削ることはない。<br />
　ヴォーカルのサンプ・サンプ・サンプはトーキング・モジュレーター、あるいはトーク・ボックスと呼ばれるセットアップを用いてパフォーマンスを行う。トーク・ボックスとはシンセサイザーから出力された音を直径一センチ長さ一メートルばかりの透明なチューブを通して人間の口に放り込み、口内で楽器の音が響いている状態でその人間が発声をすることによりシンセサイザーの音色が人語を話しているような効果を出す演奏法、あるいは専用のスピーカーとそれを密閉する半球型のプラスチック、その半球の頂点から伸びた透明のチューブの機材一式を指す。最終的には通常のマイクロフォンで人間の口からの出音を拾う。<br />
　トーク・ボックス自体はそれほど珍しいものでもなくポップ・ミュージックの領域でも伝統的に用いられてきた。だがその機構を通して生み出された音が音楽的に聞こえるのはあくまで根元のシンセサイザーから出力される音色とメロディが音楽的だからであって、ヴィンテージ物のパッチ・シンセから発振されるぶつ切りのノイズ、反復の周期の短い機械音が口の中で響いているなかで話せば奏者の口元のマイクが拾うのはそれなりの音となる。サンプ・サンプ・サンプが採用したのはそのようなトークボックスの使用法だった。そこに遅延（ディレイ）と呼ばれるエフェクトをかけてトークボックスを介したボーカルを反復させる。木霊のように反復するサンプ・サンプ・サンプのヴォーカルは作品をコンスタントに覆う音響効果のようだ。絵としてはトークボックスから伸びてきた透明のチューブをくわえ煙草のように口の端に挟んでマイクに向かい、左手でサウンド・エフェクターのノブを抓み、右手でシンセサイザーの鍵盤をまさぐる。<br />
　残りのメンバーは二人、ギタリストのキース・へネットとベース弾きのカシミアハットで、サンプ・サンプ・サンプ、それにダニー・フィルムスと四人揃って、プログレッシヴ・ロックとガレージ・パンクの中間辺りの構成上の技巧と、細部の多様さと、巧みに制御された粗野さと、様々な印象的で軽快なギターリフが生み出される。彼らはそれを遂行するだけの技術と、そして自分自身の作品に対する独特の解釈を持っていた。<br />
　原曲の構成の都合上ライヴでは彼らはメドレータイプの演奏を得意とする。そのライヴの四半分を十二分の長さを持つ「ノータウン・レコーズ』で埋めるのだが、実際にはそれは一貫したショウに埋もれており、そのためにその曲は十八秒という間隔で自らを立ち上げ続ける必要があった。その必要性のためにそれはそこにあった。<br />
　ネヴァダの片田舎のバーのジュークボックスにプレイン・ヴェガスの曲が入っていることは驚きでも何でもなかったがどこか拍子抜けするところもあった。かと言ってラスベガス中心地の平均的なバーでその楽曲がかかるようなバンドでもない。予定を確認するためにここまで何時間もかけて車を走らせてきたような気がした。そしてそれは紛れもない事実なのだと分かっていた。<br />
　その晩、あるいはわたしがその晩のことを思い出しているいつかの晩である今あるいはその晩、闇に均されて他の数多の夜との別を失ってしまったその晩と呼ばれるそのいつかの晩、わたしは時を違えた無数の砂漠の光景の中に同時に存在している。もちろんそれらの場所にいるのはわたしではない。時代も場所も気候も時間帯も服装も違う。それはわたしにそっくりな誰かだ。そしてそれはこのわたしでもある。わたしにそっくりなわたしが、隊商に混じって砂漠を渡る場面がどこかに浮かび上がる。あるいはただその場所に浮かび上がる。そうでなければわたしを背後から見ている騾馬に乗った男の視界にわたしは映し出される。何故かわたしにはその男が見ているわたしの姿がはっきりと見える。それがわたしの氏族の姿なのだと分かる。誰かの目蓋の裏に、その目の奥に、上手に焦点を合わせることさえ出来ればその像はくっきりと浮かび上がる。<br />
　そこに音声は被さらない。ただわたしにそっくりなわたしが、それともわたしがそっくりなわたしが、幾つもの無音の光景のなかでそれぞれの人生の思惑を果たそうとしている。あるいはある場面の要求を片付けようと尽力している。その最中にふと我に返るだか我を忘れるだかして、目の前に展開する景色に心を奪われているわたしがいる。そのそれぞれのわたしが自分がどのような経緯でその場面に居合わせているのかを確認している。その全員が自分の人生である何かを思い出して確かめようとしている。無数の場面のそれぞれが他の場面の経緯に含まれていることはない。音声を欠いたまま再生を続けるそれらの場面の前後が互いに被さりあうことはない。<br />
　ネヴァダの夜、わたしは場末の酒場でプレイン・ベガスを聴いていて、無声映画に出演しているわたしの頭のなかで同じ音楽が鳴り続けている。わたしは頭の中で鳴り止まないその音楽を聴きながら、その場面が自分の人生として進行し続けるのを時折確認する。<br />
　酢みたいな味のするワインを一杯、また一杯と注文する。ジュークボックスにニッケルとダイムを幾枚か流し込み続け様に曲を選ぶ。プレイン・ベガスのは一曲しか見つからず「ノータウン・レコーズ」や「エヴリシング」といった彼らの代表曲はそのジュークボックスには収められていなかった。<br />
　入り口から見て奥行きだけが存在するような細長い店で、カウンターの背後三十センチの場所に木の壁があり、その一帯出身のバンドのポスターやそれらのバンドのライヴの模様を切り取った写真が掛かっている。そこにプレイン・ベガスのポスターは見つからない。<br />
　入り口からすぐ右手にジュークボックスがあり、その前面から少し離れたところに申し訳程度のテーブルと椅子が置かれている。そのテーブルには染みや煙草の焦げ跡がそれが残された時と同じだけの腑抜けた様子でそこにある。それらの染みや焦げ跡は闇の中でも見えてしまいそうなくらい腑抜けきっている。わたしはそのテーブルを無視してカウンターに座り、ポケットの中の紙幣と硬貨を確認している。不用心であることは十分に承知していたが財布はホテルの部屋に置きっぱなしだった。<br />
　話しかけて来る酔っぱらいをいなしながらわたしはいつかDVDで見たプレイン・ベガスのライヴを思い出す。<br />
　先にも話した通り彼らはメドレー形式で自身の楽曲をライヴ演奏する。その際に曲から曲へとひとりにつき八小節ずつずれて移行する。つまりダニー・フィルムスのドラムがまず始めに次の曲の頭の八小節を叩き始める、そのあいだは残りのメンバーはもとの曲の演奏を続けたまま。八小節が過ぎ、その次にキース・エネットが次の曲のリフを刻み始める。二人が次の曲へと移行して、二人がまだ同じ曲を弾き続けている。それからまた八小節経ちサンプ・サンプ・サンプのディレイ音がフィルムスとエネットの出音とマッチし始める。そしてドラムが次の曲に移行してから二十四小節が過ぎ、二十五小節目の頭からカシミア・ハットのベース音が割り込んで次の曲のキーとコード進行を裏付ける。そのあそびの小節数は移行する曲から曲によって変わり、一小節ずつ順番に、順番を交換しながら、次の曲に足を踏み入れていく場合もあれば、順番に一拍ずつ次の曲の演奏を始めることもある。その際には四人分合わせた移行の一小節がそこに挟まれる。それを四分音符あるいは八分音符単位で行うこともあり、その場合にはメンバーは殆どジャストのタイミングで次の曲に遷移するが、実際に全メンバーがジャストのタイミングで次の曲に入るというパターンはそれ自体がメドレー的な「ノータウン・レコーズ」の中でしか行われない。<br />
　聞いた話ではライヴで「ノータウン・レコーズ」の十二分パートに突入しようとした時に出遅れたカシミア・ハットがわざと一フラグメントずつ遅れらせたまま始めの一つを除いた三十九フラグメント分を演奏仕切ったことがあるという。そしてそれがシャッフルの始まりだという。シャッフルというのはつまり「ノータウン・レコ—ズ」をライヴ演奏する際に、各人が四十のフラグメントを好きな順序で演奏してもいいということだ。当然ライヴでは各フラグメントのグルーヴが楽器ごとに混ざり合い、ともすれば非常に聞き苦しい十八秒も幾つかあったりするのだが、フラグメントの混ざり方によっては面白い和声やリズムが聞こえることもある。各人が重複したフラグメントを弾かないというのが絶対条件である。それぞれ何ブロックかに分けて曲を幾度も覚え直し四十よりも粗いパターンで演奏していた可能性はあるが、彼らがその条件を満たさないことはなかった。<br />
　彼らのライヴでは曲から曲への移行は通常はウェーヴであり、十二分間のあいだそれはシャッフルとなる。ライヴが始まって二十五分三十秒あたりで誰も次の曲に移行せずに全員が一つの曲を最後まで演奏するタイミングがある。そこで音が止まる。短い休憩時間の合図だ。瞬間、場内は観客の叫び声や歓声だけに包まれる。メンバーはそれぞれミネラルウォーターを口に運ぶ。その状態を静寂と呼べるならいろいろなことが可能になる。そしてやがて本当に歓声が止んで、二百人は収容できる場内が本物の静寂に近いものに満たされる。ところどころで観客同士の囁き声が渡る。あとは汗をかいた背中だけ。<br />
　そのような中休みをおいてライヴは二部構成で進む。かと言って特に前半も後半もやっていることに変わりはない。わたしは扇風機よりも小さなテレビ画面の一番手前に映っている娘のすぐ後ろからそのライヴを見ていた。そのように想像するのが一番自然で楽だった。<br />
　わたしにそっくりな誰かがどこかの真夏の部屋でそのビデオを見ていて、それは歴史の画像的な表層を伝って生きるわたしの氏族の物語ではない。それはわたし自身の過去だ。そしてそれはわたしの氏族が生き存えるために必要な場面としてまた別に存在する。<br />
　先に話したようなプレイン・ベガスに関する情報はネットのフォーラムや少部数の専門誌に掲載されていた記事から得たものだ。何故かアルバムの日本盤が発売されたことはなく、それに伴う筈のライナーノーツも存在しない。もし日本盤があったならわたしはそっちを買ってライナーノーツ内の情報も網羅しようとしたはずだ。そして存在しないそのライナーノーツは存在しないバンドについて延々と書き立てているのだ。<br />
　この旅のどこかで彼らのパフォーマンスを見られれば、とジューク・ボックスでプレイン・ベガスの字面を見つけた時にふとそう思った。そう思ったんじゃないかと思う。あるいはそう思うことになることを知っていた。あるいはそのことを知らなかった。そしてそのことについて知っているのか知らないのかは本当に分からない。それはあくまでたとえ話だから。<br />
　ジュークボックスのショーケースのガラスにわたしの顔が映り込むその奥で七インチ盤が回転し始める。レコードに静かに針が落ちる。時間が音になって流れ始める。筐体の上半分に同心円の半分をなぞるようにして幾列にもなった電飾が光り、派手さ、賑やかさ、明るさに欠けないように配慮が為されている。曲を選んでいる時にだけ感じる孤独を紛らわしたり強調したりするためにそのような電飾が据え付けられている。わたしのことを無視し始めていたバーテンダーにそう話してみる。男はわたしの言っていることが分からないと言って頷いている。頷いているのは優しさからかそれとも親切心からか、わたしは判断を保留する。他人の人生の物語を聞くのが得意ではないわたしは旅先では誰とでも一定の距離をおいて接する。ある人物の過去について直接話を聞いて知ることによりそれを出来合いの物語のように感じてしまう自分の性根が嫌だからそうしているだけだ。どこかで必ず似たような話を聞いたことがある。わたしは必ずそのような場所で立ち止まってしまう。例えそれが真実ではないと分かっていても。そしてそれはそのような漠然とした喩えの中で生き延びていく氏族なのだ。時の流れのなかでその端緒を絶えず更新しながら。そのようなものを指す英単語もある。でもそれよりももっと漠然とした、比喩の海底で種を存続させているような氏族。ひとびとの話す意味の水面の鏡で時折その姿が目撃される。<br />
　わたしはネヴァダの砂漠でそのように目撃されていてそれとは関係なしに風が生暖かい夜だった。自分が大陸でロードトリップに乗り出た理由を思いだそうとしていた。言葉という自分の外側にある記憶を借りて用いながら。いつか扇風機かテレビの画面を見ながらプレイン・ベガスのライヴを見ていた夏の午後を思い出しながら、遠くで踏み切りが下りてサイレンが鳴り、雨が訪れて雷が轟き、通り過ぎる自転車がベルを鳴らし、一分が片付かぬまま一日が終わる。</p>

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6</p>

<p>　その土曜日の朝、一日のうちのある完璧な一分を見定めてすべてがプレイン・ベガスの「エヴリシング」をかける。珈琲が半分残ったカップには朝を半分残したままだ。そのイントロが流れた瞬間、その瞬間を含む一分が始まった瞬間、結局この一分が片付かぬままその日が終わっていくのだろうと思った。あるいはこの一年か一生が終わるのだろうと思った。その朝、その曲の出だしがスピーカーから出力され始めたその瞬間、まさしく瞬間の長さというものを捉える契機がそこにあったのだが、そのような考え事をしていた僕はそれを取りこぼしてしまう。それはいつものことなのだ。<br />
　『エヴリシング』は「エヴリシング」という曲が収録されたアルバムのタイトルでもある。それはプレイン・ベガスが自分たちで捏造したバンドのフルアルバムという体裁をとっているがそのアイデア自体は使い古されたものだ。世界で最も有名なバンドのひとつが1960年代半ばに似たようなコンセプトのアルバムをリリースしている。ともあれジャンルをまたいでそのような前例は数多くあるものの、プログレッシヴ・ポスト・ポスト・ロックンロールと無理矢理に形容あるいは解釈されることのあるプレイン・ベガスらしいアプローチである。<br />
　プレイン・ベガスが「エヴリシング」アルバムを作ったのは、その前作に収録された「ノータウン・レコーズ」という40のフラグメントからなる再生時間十二分の大曲を録音したことがきっかけだと言われている。十二分に詰まった様々なエッセンスを一つのアルバムに希釈したということだろうか、それとも様々なスタイルからなる多数のフラグメントを含んだ「ノータウン・レコーズ」を録った際にバンド内で生じた多重人格的な風味を別の解釈でさらに推し進めることにより昇華させようとしたのだろうか、日本盤の発売されていないバンドだけに手に入る情報も限られていてその辺の詳しい意図や関連や事情や経緯は分かっていない。<br />
　いつのまにかすべては当たり前のように砂を髪の毛に絡ませていて、現実の時間で身支度を整えている僕は居室ですれ違うたびにその一粒一粒をつまんで取ったり、すれ違いざまに肩にかけた手を軸に向きを揃え髪の毛を掌で払った。すべての黒い髪の毛に砂漠の痕跡は映えた。あるいは、これはたとえ話だけども、幾つもの終わらない夏と直角に交わる人間の夏が追いついた砂浜の景色から巡る季節により運ばれてきた怠慢が砂粒の形で人間の朝と交わっているみたいだった。<br />
　僕とすべてが出会ったのは少し古い夏のことだった。僕らが出会った夏は人間の夏に身を潜めてそこにあった。モヒートのグラスの縁、その縁から見たモヒートの淵に、グラスの汗を包んで気温はそれなりに高く、沿岸のバーの屋根の下で、その天井で回り続ける扇風機の下で、グラスの縁を見つめて、モヒートの表面が存在して、溶けて他の氷を掻き分けて浮かび上がる細氷がグラスを震わせた。<br />
　当たり前の夜が奇妙なものを抱えているのが分かった。その奇妙なものは僕が自意識を持った時から僕に連れ添っているもので、それがその夏、僕が過ごす時間と交わった。つまりそれまではそれは時間を必要とせずそこに在ったことになる。それは言い過ぎだとしても、とにかくすべてがそこにいるというごく当たり前のことが信じ難かった。<br />
　バーの屋根と回転する一基の扇風機と一つのグラスとそのグラスの縁、実際には距離を於いて横たわるもの同士のそれぞれの縮尺を変えることによって、あるいは然るべき角度からそれらが含まれる光景を望むことによって、それらをひとつのファインダーの中に収めることができた。だからその酒場の広がりは終わらない一分の画像みたいに集まってそこにあった。決して片付けることの出来ない時間や場面が奇妙に一カ所に集まっていた。それをどこからでも切り取ることが出来た。そのバーの夜の光景を、それより昔に訪れたどこか外国の観光客向けではない酒場での夜を透かして眺めることだって出来た。僕がもう忘れてしまった過去の夏を透かしてすべてと出会ったその夏や今のこの時に目をやることだって出来る。僕らは自分たちが忘れてしまったことに気づかないものを透かして現在を見ることがあるのだろう。だからすべてがこんなに懐かしいこともあるのだろう。<br />
　あるいはすべてがその髪の毛に絡ませている砂粒は、僕らが出会った夏からすべてが運んできたものかも知れない。すべての髪の毛に控えめに絡まり続ける砂の総量があの砂浜に匹敵するのかもしれない。あるいは僕らが踏みしめることの出来る一角の、実際に足跡が残る部分くらいには届くかも知れない。熱気を伴い、夜気を伴い、動きを伴い、時を伴い、息を伴ういつかの夏の時間の僕らがせいぜい占めることができるごく控えめな隙間を埋めるくらいにはなるかも知れない。<br />
　プレイン・ベガスの話題を介してすべてと互いの価値観や信条を伝えあった。サンプ・サンプ・サンプのボーカルのディレイがいかに間抜けに聞こえることがあるか、そもそもシンセサイザーのアルペジエーターから出力された六十四分の分散音符をトークボックスに噛ませる馬鹿がどこにいるのか、ファンのあいだでは特に知ってて珍しくもない軽口を叩き合いながら互いの呼吸の間合いを計った。カシミアハットが別名義で参加しているエレクトロニックミュージックのユニットや、ダニー・フィルムスのソロプロジェクトにはキース・へネットがボーカルで参加している。へネットはギターの弾き語りのアルバムをリリースしているが僕はそれに一度もお目にかかったことがない。彼らがそれを作っているあいだ僕はそのことや他の情報を集めることに忙しかった。いつしかそれは惰性となり、習慣のなかで怠惰なものになった。細分化された先の集まりのなかで、自分が存在するように存在する何か、そのように想像することを要求してくる空白のなかの何かか空白そのものである何か。空白であることにより分化を免れている何か。<br />
　プレイン・ベガスのメンバーが一度も一同に期さぬまま作り上げられたアルバム『イーヴン・ラスベガス』の逸話は僕もすべてもやはり気に入っていた。<br />
　『イーヴン・ラスベガス』はこのように作られた。まずメンバーの誰かが自分のパートをほぼ即興に近い形で録音する。それはサンプ・サンプ・サンプでもダニー・フィルムスでも、キース・エネットでもカシミアハットでも構わない、このアルバムでは誰かが何もない状態から自分のパートだけをまず自主的に録音した曲が各人に対してほぼ同じ比率で存在する。ボーカルのみ、ドラムのみ、ギターのみ、ベースのみの状態から始まって、次に偶然にスタジオを訪れた誰かが曲の原型がそこにあるのを発見してそれ合わせて自分のパートを録音する。以下同じように続き、全部で十四曲入りのそのアルバムは通してそのような過程で制作された。「イーヴン・ラスベガス」の制作にかかった二ヶ月のあいだにスタジオでメンバー同士の滞在時間が重複している期間はない。初めの四日で一曲の録音が終わった。次の曲の録音が終わったのはその四日後だ。つまり一日一人スタジオを訪れて自分のパートを録音して帰っている。それを五十六日間続け十四曲が完成したところで誰かが寝坊したのだ。続く三日も誰かが寝坊したのだ。かくして単にその即興性と実験精神からジャズ的であると称された奇怪な十四曲のロックンロールが録音された。アルバムのジャケットにはそれぞれの曲がどのような順番で録音されているかが書かれているがそれは現実と一致しない。それを加えることだけで五つ目のパートをアルバムに迎えることができる。そのように完成したアルバムはCD千枚分だけプレスされた。そのうちの百枚くらいが日本に入ってきていて僕もすべても別々の時期にそのアルバムを聴く機会を得た。<br />
　その別々の時期というのが本当に別々の時期なのかどうかは僕には分からない。それは同じ時期であると儀礼的に考える。音楽が場所の名前であるようにそれは時間の名前にもなり得るのではないかと感じる。記憶のなかでは空間に対する意識と時間に対する意識は入り交じり、特定することの出来ない場が心の中に生まれる。記憶のなかで時間が流れることがないのは良識的に考えてそうだろう。だが記憶は変化する。よほど関心があることがなければ物事の細部やその差異などは見過ごされるし、起こったはずのことが起こっていたり、そこになかったはずのものがそこにあったことになる。物事は変わり時間は流れず、静止画であるだけの落ち着きもないままに開いたまま目蓋の裏を時間の経過を伴わぬ光景が過ぎり続ける。あちこちが欠けると共に、同じく全体の特徴を占めるところの別のあちこちは粉飾され、そうして現在の時点で出来上がった自分の人生のファンタジーが単にそこで作動する。だからこそ物事の細部に触れ、誰かの幻想が実際にそこで作動していることを確認する必要がある。それぞれがそれぞれの記憶のなかで生きているというのは多分現実のことで具体的なことだ。すべてに言わせればこれでも話の順番しか示せてないことになるのだろうが。<br />
　アルバム『トーキング・ベガス』は件の十二分の大曲「ノータウン・レコーズ」をアルバム単位でやってみたという意欲作である。このアルバムに於いては一フラグメントはおよそ四十五秒と定められ、それが六十四フラグメントだけ勢いを並べてそこにある。単に一曲四十五秒の曲を六十四曲収めたアルバムとしても聞けるのだが、或るフラグメントと曲順的に対称的な位置にあるフラグメントがそれぞれのヴァリエーションであったりと全体で図形的な構造を持ち、それを作品としての完成度の中に取り入れることに成功している。曲の緩急が重視され、ギターリフが激しく細かい曲が続いた後に突然メロウなフラグメントが来る。並んでいる曲同士では関連性はなく、曲順的に対称の位置にあるものに関しては何かしらの共通点があるようになっている。例えば最初と最後のフラグメントはキーが一緒だし、二番目と最後から二番目のフラグメントは両方とも三拍子である。楽器同士で譜割りを交換した二つのフラグメントもあれば、他のフラグメントに似ていることが共通点である二つのフラグメントも存在する。再生時間は四十八分。その一トラックのみのアルバムだ。</p>

<p>　「そんな曲のどこかで君を見たことがある気がするんだ」<br />
　僕はすべてにそう話したことがある。初めて会った気がしない、単にそう言えばいいだけのところを。<br />
　「だからプレイン・ベガスのメンバーがわたしのことを知っていた筈がないじゃない」<br />
　すべてはそう答える。別に根拠が存在する類のことでもないしその中でも整然とした理路を渡ってもいないかも知れないが返答ではある。<br />
　「どれとどれのフラグメントのなかにわたしがいたのか教えて」<br />
　とすべては律儀に『トーキング・ベガス』のジャケットを棚から見つけてそれを左手で差し出し、右手の人差し指の爪でその表面を二回コツコツと叩く。<br />
　「そうやって捕まえようとすると目の前にいる君がいなくなるし、そもそも君が目の前にいる限り僕がそのアルバムのなかで君の姿を見つけるのはとても」<br />
　「あなたってあれでしょ」<br />
　とすべては僕の言葉を遮ってこう言うのだ。たぶん本当のことを。アルバムを棚にしまいながら、<br />
　「わたしをこのアルバムのライナーノーツくらいにしか思ってないんでしょ。しかも存在することのない」</p>

<p>　「あなたはどうしてわたしが音楽のなかで見つかると思うようになったんだろうね？」<br />
　また別の場面を見つけてすべてがそう訊ねる。自分が僕に対してそう訊ねている場面に割り込んですべてが僕にそう訊ねる。それはその土曜日の朝のことだ。<br />
　『トーキン・ベガス』がかかっている。四十五秒毎に区切られたフラグメントのなかで各パートが絡み合い、それぞれのパートは他の断片のなかに自身のバリエーションを見つける。街路みたく入り組んだ格子が幾重にもなり、それ自体が考え事をしているみたいな音楽が流れる。ごく緩やかな規則のなかで厳密なタイミングを守ってギターのストローク音が響く。その音にエコーがかかり情報の始まりと終わりが曖昧になる。洗面所と寝室を行き来していた僕らがすれ違った折に突然すべてがそのように訊ねてくるそのタイミングがその出来事自体に対して全く不自然ではないのと同じく。その話はさっきもしたんじゃなかったっけ。それとも似たような話をしたことを僕が思い出していただけか。それは僕がただ単にそのように思い出されうるものがあると考える種類の人間だからではないのか。それとその何かを実際に行うことの境目を越えることにより僕は生きている。ご多分に漏れず。<br />
　そうやって複層的に交差する道のどこかを歩いているすべての姿がありそれはまた別の夏の背景を背負い、汗をかいて彼女は帽子を被っている。「トーキン・ベガス」というのはすべてがいつまでも歩き続けられるような構造を持ったアルバムだ。<br />
　「トーキン・ベガス」のなかで共通項を持ったフラグメントとフラグメントは対称的に配置され、そのように閉じた形には終わりも始まりも存在しない。どこかの街角はかならずどこかの街角に繋がっている。その街角はどれかの街角と時間的に連絡している。メドレー形式の楽曲の構成が次々と街角を曲がり続け、その曲は自身の孕む対称性を貫いて始まりから始まりにたどり着く。プレイン・ベガスのライナーノーツに書いてありそうなことだ。相互に接続する三十二本の道が敷かれた街。その街区のどこかにノータウン・レコーズは軒を掲げているのだろう。<br />
　僕は女性の影を音楽のなかに見つける。その女の様々な姿を追いかけて次から次へと曲を変える。カンツォーネ、カリプソ、カム民謡、あるいはオルティンドーの深く長い震えに女の体温のありかを見つける。すべての肌に触れている時、それまでに聴いた音楽の記憶が甦り続け、僕に気づかれることによってそれは鳴り止み、いつの間にか別の旋律や歌唱法の記憶のなかに自らの中断された続きを見つける。現在に関する記憶のなかで僕とすべての沈黙と呼吸を借りてそれはそこで鳴っている。闇に溶け込み、闇は僕らの目の光りを透かす。<br />
　歴史の聴覚的な表層を生き存える氏族。それはその音楽に耳を傾ける人の思い出のなかで生きていて、ある曲が演奏されたり再生されたりするたびに若返り、その氏族が不死であるのかどうかは僕らが不死では無いが故に確認することが出来ない。演奏されなくなった曲からまた新たな曲へと逃げ込み、古い曲目が選ばれる時には何気のない顔をして自分がいなくなった筈の曲の中に姿を現す。あるいはその時にはその女が携えていた記憶がその女自身のように見えているだけなのかも知れない。僕はそのような氏族の存在を考えた。すべてに話しても呆れられるだけだと分かっていたから特に言及はしなかったけれども。<br />
　すべての言う通りプレイン・ベガスのメンバーがすべてのことを知っていた筈はない。けれども僕が『トーキン・ベガス』アルバムに耳を傾け「ノータウン・レコーズ」の在処を確かめる時に、僕が聴覚を通して確かめているその光景にすべては視覚的に含まれている。もちろんこれは僕の勝手な言い分であり、現実的な根拠のある話ではない。ただそういう気がするというだけだ。</p>

<p><br />
7</p>

<p>　わたしは、あるいはわたしにそっくりな誰かがその夏の部屋でプレイン・ベガスのDVDを見ようとしている。<br />
　まず砂嵐が映った。<br />
　いつか、わたしと一緒にいた、あるいはわたしと一緒にいることになるであろう男がすべての曲のなかに女の姿を見つけ出すことにより、その男がわたしにそっくりであると思っているその女は歴史を通して存在するようになる。それはわたしの氏族の由来の一つである。その自分勝手な男は自分やわたしが生まれる遙か以前に作られそして忘れ去られた曲を聴いた時でも、その自分勝手さゆえにわたしにそっくりな女の姿をそこに見つけ続けるだろうから。誰かが忘れてしまって他の誰かが新たに思い出したメロディを含む曲の中には似たようなわたしの姿をその男は見つけ出すだろうから。ある心地の良い春先の土曜日の部屋、たったひとりでプレイン・ベガスの曲でも聴きながらその男はわたしがそこにいないことに気付くのだろうか。聴覚を経て視覚として実現し、そこで単なる場面として切り取られた無声映画のなかで生きているまったく同じ見かけをした女、あるいは女たち、それは誰かの聴覚を経て自分が生み出されるに至っている音楽を頭のなかで聴いていて、無声映画のなかその音楽に合わせて踊り続ける。<br />
　画面上でプレイン・ベガスがライヴを始めようとしている。いつかの時点のわたしが、あるいはわたしにそっくりな誰かが、わたしの氏族のひとりがジープで大陸を横断だか縦断だかしようとして同じくネヴァダの砂漠沿いの町でグラスを傾けている夜から時間的にも地理的にもほんのわずかしか離れていない夜のことだ。金に薄茶色が混じったような夕暮れの色のその延長線上で歯抜けたネオンが渡る看板を幾つも通り過ぎた。夕暮れの境界には空気よりも深い青。<br />
　プレイン・ベガスの『エヴリシング』というアルバムはプレイン・ベガスが捏造したバンドのフルアルバムという体裁をとっているという話をどこかで聞いたこともあるかと思う。彼らが「エヴリシング」アルバムを最初から最後まで演奏する際には彼らはそのバンドに扮してライヴを行った。さらにそのライヴではプレイン・ベガスの曲もセットに組み込まれていた。自分たちがでっち上げたバンドが自分たちの曲をカバーし、それを演奏するのは結局自分たちだ。だが違うバンドなのだ。新たに覚え直したみたいにプレイン・ベガスの曲を弾いてみたのだとカシミア・ハットがどこかのインタビューで話していたことを思い出す。そう思い出すことによりわたしはここにある。単にいつか別の時のことを思い出すことによってわたしはここにある。ここにあるわたしは別の時にあることにより思い出されている。それは嘘で、ここにいることにより別の時の存在をわたしはただ示している。そのすべての決して埒の明かぬ糸口であり、見方を変えればそれは常に縺れた糸玉のたどり着くべき終端でもある。<br />
　わたしはそのライヴが行われた夜、その場にいなかった。わたしは彼らのライヴのその収録物の複製をテレビの画面を通して見ていただけだった。でもその場の壁沿いに設えられた奥行きの十センチばかりのカウンターで汗をかいているいつかまた別の夜のモヒートを手で掴むことができそうだったし、いつかのその夜にモヒートの入ったグラスがないのならばそのライヴの記録映像を通してその知られぬ夏の夜にグラスを置きに行くことだって出来そうだった。そしてそこではプレイン・ベガスが扮するまた別のバンドがプレイン・ベガスの曲をカバーしていて、実際に違うバンドがプレイン・ベガスの曲を演奏していた。<br />
　雨の匂いがした。プレイン・ベガスがライヴを行っているバーの屋根の下、あるいはわたしが窓を半開きにしたまま放っておいているある夏の部屋で。どこかの商店街から少し路地を入ったアパートの二階、階段の脇に自転車をたてかけたままだった。秋の訪れより先に、雨が降る前にそれを軒の下にしまわなければと考えていた。夏だ。蝉の喧しい夏だった。過去形を用いているのはこれが厳密に自分の記憶だからというわけではなく、何故かわたしはこれと全く同じ光景の夏のこの部屋を覚えていてそのことを示すためだ。<br />
　冷蔵庫に残っていたものを炒め簡単な夕食にした。スープはインスタントのものを食卓に並べた。でもそれはプレイン・ベガスのDVDを見終わった後の出来事なのだ。それとも早めの夕食を食べ終えた後にDVDを見始めたのだろうか。時間の目的に合わせて記憶は区切られる。その部屋で実際にわたしがDVDを見ようとしているのならわたしは自分が夕食を済ませたか済ませていないか知っている筈だ。だからこれはわたしがわたしの記憶の一部分だけを思い出しているその描写ということになる。そしてそれとは別個にわたしがその夏の六畳間で画面を見つめているそんな場面がどこかで再生されている。だから結局のところこれはわたしにそっくりな見た目をした誰かの記憶でしかないのかも知れない。あるいはわたしにそっくりな見た目をした誰かがプレイン・ベガスのDVDを初めて見ようとしていたその夏のわたしを思い出しているのかも知れない。<br />
　画面にはまだ砂嵐が吹き荒れている。<br />
　砂嵐の奥、画面上ではまだプレイン・ベガスのライヴが始まろうとしている。ステージに向かって左にはサンプ・サンプ・サンプが用いる旧式のシンセサイザーに接続されたトーキング・ボックスの設備があり、その反対側にはダニー・フィルスのドラムセットが設置されている。二人は座ったまま演奏する形だ。ステージの中央にはキース・へネットとカシミア・ハットの用いるギターとベースがスタンドに立てかけられている。正確に言えばこれはプレイン・ベガスのライヴではなく、プレイン・ベガスが作り上げたまた別のバンドのライヴということになり、わたしが時間の様々な地点から思い出されることによりここに重複して存在しているように感じられるのと同じように、プレイン・ベガスと、『エヴリシング』をリリースしたまた別のバンドはまるっきり同じ姿で重なってそこにあり、いかなる像のぶれも発生しない。プレイン・ベガスも、プレイン・ベガスでありプレイン・ベガスではないまた別のバンドもまだステージに上がってはいなかったけれども。<br />
　ここでプレイン・ベガスだけがステージに現れたなら、あるいはプレイン・ベガスがそのフルアルバムを録音した存在しないバンドだけがステージに上がったなら。もう済ませた夕食かそれともその映像を鑑賞した後で済ませることになる夕食のことを考えながらそんな思考を弄ぶ。それはいつかの、いつか先の日の、和やかな土曜日のようにどうも怠惰な夏の休日で、簡単な夕食で済まそうとわたしは考えている。あるいはその日の夕食は仕度の際も片付けの際も手間の掛からぬ簡素なものであった。わたしはそんなことを思い出しながらそのいつかの夏の部屋で画面を見つめながらライヴのフッテージが始まるのを待っていた。<br />
　画面には砂嵐。<br />
　画面の横では扇風機が回り続けている。そのプラスチック製の羽が、その前の年からずっと回り続けているかのように感じる。どうせその前の年にはその扇風機は次の夏までずっと回り続けているみたいだなと考えていたのだろうし、現在の舞台である夏がその前の夏かも知れない。もし二つの違う夏にプレイン・ベガスのDVDを見る機会がわたしにあるのならわたしのそのような解釈も成り立つ。益体のない考えだけれども、幾つもの夏の通過したその部屋でわたしがそれぞれの夏にプレイン・ベガスのライヴ映像を見ていたのなら、ここまでのわたしの言い分はきれいに成立する。わたしはただ単に記憶の中に散見される似た光景を寄せ集めてわたしが語っている形に成形しなおしているだけだ。さして手間のかかる作業ではない。幾年かの範囲に散ってしまった夏に共通するある一場面ばかりを切り取りそれを重ねて自身の回想の光りにかざす。そうしてどこかに映し出されるわたしの姿はどこか似ているようで一つに定まらず前後に様々な可能性を孕んだまま、それ自身がどこかで編集された別の時間によって孕まれた可能な世界の一つである。その夏の部屋について語るこのわたしがその夏の部屋の内部にいるかのようで、実はその夏の部屋から外側に向けて含まれているのと同じように。いま話しているこれが回想の回想であるかも知れないように。だから一見重複したわたしの像が本当は少しばかりディテイルを違えた書き割りのごとく無数に存在していて、わたしがその場面の要求を満たしながらもさらにそこから逸脱することによってその場面について語ることが出来ているのと結局は同じように。<br />
　やがてステージ上にメンバーが姿を現す。<br />
　まずはダニー・フィルムスがスタンバイするがその姿はドラムセットに隠れ殆ど見えない。影のなかの影がフィルムスの膝頭として揺れているのが時折確認できる程度。あるいは比較的明るい色のTシャツが舞台を照らすほんの微かな照明に反射しているのか、ともかく闇のなかにフィルムスがそこにいることだけが確認できる。それは殆ど暗闇自体の悪戯と呼んでもいい。それくらいの確かさだ。それからキース・へネット、カシミアハットがそれぞれ舞台の左右の袖から現れて舞台を左右に分かちながらそれぞれの位置に立つ。彼らの姿もその着衣の輪郭の動きらしきものによって辛うじて捕捉できる程度だ。それからしばらく経ってサンプ・サンプ・サンプが姿を現す。<br />
　つまりはダニー・フィルムスが扮するところのキース・へネットという名前のドラマーがまずお目見えする。ドラマーであるキース・へネットはプレイン・ベガスがでっち上げたバンドに属している。このDVDはその捏造されたバンドの『エヴリシング』というアルバムリリース時のパフォーマンスを収めたものだ。それからキース・へネットが扮するところのサンプ・サンプ・サンプという名前のギタリストが現れ、カシミア・ハットであるところのダニー・フィルムスというベーシストが楽器を担ぎ上げストラップを肩にかける。それからしばらく経ってからサンプ・サンプ・サンプ演ずるところのカシミア・ハットという名前のボーカリストが姿を現して、プレイン・ベガスとはまったく違う別のバンドが顔を揃えるという次第なのだが、見た目はそのままプレイン・ベガスなのでどことなく手応えに欠ける。<br />
　彼らは単に別のバンドとして名前を入れ替えることにより自分たちが歴史の画像的な表層に過ぎないという事実に対して無意味で手間の掛からないトリックをしかけただけだ。『トーキング・ベガス』アルバムや「ノータウン・レコーズ」などと言った楽曲やライヴパフォーマンス時の「シャッフル」という手法などもその種類の試みとして扱われた。<br />
　だがそこで行われているのは演技ではない。つまりダニー・フィルムスはキース・へネットを演じようとしているわけではなく、サンプ・サンプ・サンプはカシミア・ハットの振りをしようとしているわけではない。そうしたら各自が自分の楽器を弾けなくなってしまう。だから役割の交換があったわけではない。<br />
　こんなジョークがある。<br />
　店主とアルバイトのあいだの会話という設定だ。<br />
　「もっと働いたらどうなんだ」<br />
　「でもいまは客も来てませんし」<br />
　「だったら働いている振りくらいしろよ」<br />
　「そっちが僕が働いてる振りをしたらいいじゃないですか」<br />
　これは一人芝居で行われるスケッチだ。<br />
　つまりは、プレイン・ベガスがまた別のバンドであるという認識はわたしに任せられており、彼らはそこに一切の労をかける必要がなかった。わたしがその二つを別のバンドであると定め、二つのバンドを同時に画面上、ひいてはステージ上に、さらには一つのバンドの中に見出すに適っている。歴史の画像的な表層を伝って生き存える氏族のその顕在的である構造そのものを二つに分けて、バンドという構成からみればそれらは全く違う音楽性を持っており、ひとつの見かけをしている。それと同時に全く同じ見かけをしているのかどうかは分からない。つまりはどちらかがどちらかを演じ損ねているのだろうとわたしは思う。結局は演技ではないという演技を同じメンバーから成る二つのバンドが競い合っているわけだから。そしてどちらかが別にどちらのことも真似る必要はないことに気づく。それでもわたしに対するそれらのバンドの見え方は変わらない。それはわたしの側の認識に預けられている。ここまでのすべてはわたしの勝手な解釈に過ぎない。すべての音楽の中に女の姿を見出すあの男はどちらのバンドが演奏しているどちらのバンドの曲にわたしの姿を見出すのだろうか。そのバンドのあり方が何らかの形で重複しているときに、定まった姿のわたしをあの男は捉えられるだろうか。歴史上に作られたありとあらゆる楽曲のなかに女の姿を見てしまうあの男は、プレイン・ベガスが『エヴリシング』アルバムを演奏する別のバンドとしてステージに上り、そしてそのバンドが四十のフラグメントから成る「ノータウン・レコーズ」のライヴカバーをシャッフルを交えて行う時に、その構造のどこにわたしの面影を見出すのだろうか。<br />
　わたしはDVDを止めて夕食の仕度に取りかかろうとする。あるいはもう既に終えた夕食の後片付けをしようとする、または別の要件のために立ち上がる、そのことによって台所に向かうわたしの姿が描かれる。違った目的のための同じに動きに集約されるわたしの姿があり、それもまた歴史の画像的な表層を生きる氏族のためのヴァリエーションとして別個に保存される。可能世界を結んで生きるその氏族は物事の解釈をも可能世界として取り込む。<br />
　皿を洗った後、わたしは再びテレビの前に座る。日は落ちている。七月か八月の夜で、真夏にしては多少涼しかった。わたしは散歩に出る代わりに散歩に出る自分を思い浮かべる。<br />
　その後で実際に散歩に出る。自分の知る町の自分の知る界隈を歩いて自室に戻る。散歩に出ているわたしが、部屋に居残って散歩にでかけたわたしを思い描いているのを想像する。それは自分を想像していることになるのだろうか。それともそれは言葉の意味だけのはなしで、そこにはまったく別々のものが見出されれているのだろうか。わたしはどちらのわたしだろうか。わたしはどちらのわたしでありたいと思っているのだろうか。わたしがどちらであろうが、どちらかは現実で生きているわたしなので何も問題はないのだけど。<br />
　散歩の途中、わたしは突然自分がタクラマカン砂漠を行く隊商に混じっているのではないことを不思議に思う。なぜモハベ砂漠にほど近い田舎町のうらぶれた酒場でジュークボックスから出力されたプレイン・ベガスの曲が乾いた空気を振動させている夜にいるのではなく、アジア東端の島国の雨の匂いのする夜にいるのか分からなくなる。そして自分がそのことを感じているあいだは自分がなぜそのように感じているか分かっていたのに、こうして言葉にしている今ではその理由はすでに失われている。それはいつもそうなのだろう。むせかえりそうになるほど湿度が高いただの日本の夏だ。<br />
　ふたたびテレビの前に座り直し、ライヴの続きを見る。これまでに何度もしつこすぎるほど振り返っているようにこれがただ語られているだけの記憶だとしたならそのライヴが正確に再現されているとは限らないのだがわたしはともかくそのフッテージの続きを見ようとする。その場所では正確であることが正確であるとは限らないから。単なる苦し紛れのへそ曲がりの通り一遍の陳述のようにしか聞こえないだろうがわたしはそのような論理に支えられてある。足りない部分は自分で語ることにより補う。わたしはそのようにして自分を補正しながら存在し続ける。<br />
　ライヴも中盤を過ぎて『エヴリシング』アルバムの最後に収録された曲からプレイン・ベガスの楽曲のカバーへと移るパートがあり、そこまでは大抵は一曲毎多くとも続けて三曲演奏するというごく普通のライヴの形式を採っていたのが突然にプレイン・ベガスのお家芸であるウェーヴ形式のライヴ展開へと移行する。もちろんそれを行っているのはプレイン・ベガスがそのバンドに扮しているとされているところのバンドの方である。自分たちであるものに自分たちの曲をライヴでカバーされる。プレイン・ベガスが扮するところのバンドプレイン・ベガスの曲をカバーし始める。だがその遷移は一度に起こるのではない。プレイン・ベガスのカバー曲への移行はウェーヴ形式を取るから、まずキース・へネットというダニー・フィルムスが扮するドラマーが次の曲のビートを叩き始める。それが八小節続いた後にサンプ・サンプ・サンプという名前のキース・へネットであるギタリストがダニー・フィルムスが扮するところのキース・へネットというドラマーと呼応するリフを弾き始める。この状態ではプレイン・ベガスがその振りをしているバンドのメンバーの半分がプレイン・ベガスの曲を演奏していることになる。<br />
　「やばいもどっちまった！」と、それに続く八小節のどこかでサンプ・サンプ・サンプという名前のキース・へネットであるギタリストが、未だ『エヴリシング』パート最後の曲を演奏しているダニー・フィルムスという名前のカシミア・ハットであるところのベーシストに向けて叫んでいるのをわたしは聞き取れない。<br />
　サンプ・サンプ・サンプという名のギタリストとしてプレイン・ベガス曲を演奏しているキース・へネットでなければならない筈が、通常通りにプレイン・ベガスの曲を演奏しているキース・へネットに戻ってしまったということだろう。つまりこの時にはプレイン・ベガスとそれが扮するところのバンドが文字通りそして見かけ通りステージ上に混在していることになる。そして彼らの見かけは一切変わっていない。やがてはキース・へネットは無事に、実際のプレイン・ベガスのメンバーあるサンプ・サンプ・サンプとはまったく関わりを持たないサンプ・サンプ・サンプという名前のギタリストに戻る。だがそれまでには数小節かかる。そのとき二つのバンドが初めてステージ上で混在する。そこには勿論ライヴの始まりから同じように一つのバンドがずっと存在するだけだ。見た目は何も変わらない。ただわたしが彼らのアルバムのそのコンセプトを真剣に受け止めるのならば、画面上、そしてステージ上ではそのようなトラブルが発生していた可能性が漏れなく付いてくる。その可能性が成り立つ正しさを求めてコンセプトは単にそれに不可避的にも意識的にも付随しているものでしかない。そうかも知れない。『エヴリシング』アルバムリリースに伴うライヴ映像を収めた手焼きのDVDを見ながらプレイン・ベガスが別のバンドの振りをしているという振りをわたしがしているだけだ。しつこいようだがわたし自身がそのような振りをしていることによってこのように語ることを得ている。<br />
　歴史の画像的な氏族としてのバンドが二つ同時に重なって存在する。さっきも話した通りその氏族は解釈も可能世界として取り込み自分たちの姿をストックし続ける。それはわたしが勝手に行っているほうの仕事だということもできる。現にプレイン・ベガスがわたしにそのことを強いてきたように。ひとつの静止した瞬間がそれ自身を配置し得る歴史の様々な局面、ひとつのバンドが同じ姿をしたまま二つの違ったバンドであること、あるいは、さきほどわたしが映像を一旦止めて立ち上がったのが夕食の仕度をするためかその後片付けをするためか、もしくはまた別の要件のためかどのようにも解釈できた時のことか、その氏族はその両者を自分のものとして歴史の表層を伝っていく。日々の不確かな意味を追いかける。前後の文脈から切り離された光景から連想されるその過去や未来の物語が果てなく展開していく。そのどこかに現在が配置されている。<br />
　歴史上のすべての音楽に一人の女を見出し続けてきたあの男がそのライヴのどこの時点でその女をどのようにかして見つけ出す。人々が聴くことによって視覚化されていく、その、あるいはそれらの女の表層と意味。それを他者を探す行為だとあの男が思ってなければいいのだけど、とわたしは思う。あの男にしてみれば、人間が行ってきた女性を捏造するという行為はその女を捉えようとする試みの一環といったところなのだろう。その夏、その夜、わたしかわたしの氏族が見ているプレイン・ベガスが全く同じ姿で違うバンドとしてライヴを行っているDVDを見ているわたしの姿からカメラが少し引いて、わたしが平日の休日を無為に終えよう六畳間が一つの画像として歴史の画像的な表層を渡る氏族の記憶から呼び出される。その映像からは音や熱や湿気は伝わってこない。砂漠を渡る風のように乾燥している。砂漠で活発な少女時代を過ごし隊商に加わっていたわたしの映像が、やはり音も熱も湿気もなく乾燥していてそのようにして響き続ける一つの映像の無機質な無が重複して目眩を生み出す。音楽がトリガーとなり次々に描画されていく無数の光景として、あるいはその光景の一つ一つが無数の解釈を孕んで氏族の歴史が様々な意味合いのもと人々の暮らしの細部に入り組んで行き渡り歴史を成立させている。その無はもとを正せば具体的な音像であったとわたしが理解する瞬間がある。そのように無と肯定とが同じ言葉で語られるための手順を探す。<br />
　画面には変わらず砂嵐が吹き荒れている。</p>

<p><br />
8</p>

<p>　その土曜日の夜、いつかまた別の夏の夜のことを思い出しているのだとすべてが話し始める。<br />
　僕はある夏の居室の光景に含まれるすべてを容易く思い浮かべることができた。小さなテレビの横で扇風機が回り続けている。物音がする。誰かの鞄が階段の脇に立てかけたままのすべての自転車に触れたのだ。彼女が猫背にしていた半身を起こしてその音がしたと思しき方向に顔を向けるのを僕は何も苦もなく思い浮かべることが出来る。歴史上で書かれたすべての曲のなかにその面影を映し出しているすべて。プレイン・ベガスの『トーキン・ベガス』において演奏されている街角のどこかにあるアパートの二階の部屋、ノータウン・レコーズのその真上の部屋で暮らしているすべて。看板のすぐ上の窓から顔を出し、いつまでも片付かぬ一分ばかりを過去の自分から受け取りながら一日の終わりを待っている。すべてが暮らしている部屋にはいつも階下のノータウン・レコーズからの音響が響いた。毎週水曜日には新譜が棚に並ぶ。仕事を終えてすべてが部屋に戻った時にもノータウン・レコーズの店員が新しく入荷したレコードを一枚一枚かけている。すべてはいつも水曜日には階下から伝わってくるそのくぐもった音響に耳を傾けるとはなしに耳を傾けながら、スーパーで買ってきた総菜を食卓に並べるか、それともいつものごとく何か簡単なもので済まそうと食事の仕度に取りかかった。食事の仕度をする前に溜まっている洗い物を済まさなければならないこともしょっちゅうだった。居間に背を向け台所に立ち、階下からの振動を足の裏で聴きながら、テレビに映った砂嵐が紡ぐ乾燥した空気を浴び、湿った空気を吐き出して、流し棚の取っ手に綺麗に畳んで掛けられたタオルで手を拭う。夕食後にはいつもアルバムを二三枚通して聴くのが習慣だった。あるいは誰かが焼いてくれたDVDに収録されたどこかのバンドのライヴ・フッテージを見た。あるいは九十年代中盤から終盤にかけて作られたミュージック・ビデオを流した。いつでも扇風機は回っていた。何かの要件ですべてが画面から顔を背けると風はテレビの画面へとその源流を変じた。水曜日にはいつも十一時過ぎまで階下で音楽が鳴っていた。新譜はその翌日には棚に並んでなければならない。そのちょっとした騒ぎが十一時過ぎに収まるのだって近隣に対する迷惑を最小限に収めるためと、終電の時間との兼ね合いのためだった。<br />
　いつか別の夏の夜のことを思い出しているのだ、という述懐を始めたすべてを早々に遮って、僕はそのようなすべての姿を知っていることをすべてに対して伝えた。<br />
　「わたしがしているのはそのわたしの話ではなく」<br />
　とすべては冷静に答える。それから半呼吸おいて、<br />
　「あなたが覚えているものとは違う、わたしかそれとも他の誰かが覚えている違うわたしの話をしてあげる」<br />
　同じ冷静さを保ったまま、すべてが話し始める。</p>

<p><br />
9</p>

<p>　わたしかわたしにそっくりな誰かが自分の記憶に含まれぬ歴史を語り始める。<br />
　いつかの夏の部屋だ。曜日は覚えていない。<br />
　テレビと扇風機、脱水にかけた洗濯物を干し終えたあと茶をすすりながら夜を迎えようとしているわたしの背中からのショットにこんなナレーションを被せることもできたかも知れない。<br />
　「ある時のプレイン・ベガスのライヴでサンプ・サンプ・サンプがピアノの音色をトークボックスに通したことがあるの。パッチ・シンセの横に電子ピアノがセットしてあった。トークボックスへの出力をピアノの方に切り替えたのね。ピアノの音がサンプ・サンプ・サンプの口へと透明なチューブを通して伝導する。普段はエクスペリメンタルなシンセサイザーの音色で歌っていたから、突然メロディアスなピアノの音色がサンプ・サンプ・サンプの言葉を喋り始めた時は、午後四時に雲間から日が差して空気や埃の色が変わったみたいだった。薄いオレンジの柔らかな照明が彼を照らしていた。プレイン・ベガスのライヴは基本的にはウェーヴやシャッフルみたいなメソッドを使ったメドレー形式で行われて、そこからの逸脱はまずないっていうのは知ってると思うけど、その時は珍しく他のメンバーは手を休めていてサンプ・サンプ・サンプのソロになってた。彼がピアノをあんなに上手に弾けるなんて知らなかった。普段は片手でシンセを弄くってもう片方の手でエフェクターを操作しているんだけど、その時は両手の十本の指でピアニストみたく鍵盤を叩いたり感圧を自分の指先で計るみたいにゆっくりと押し込んだりしていた。あるいは鍵盤と鍵盤のあいだの距離を確認するみたく。そこの部分の鳴りを確認するみたく。それを休むことなく。彼はピアニストだった。ただそのことがプレイン・ベガスの音楽性に反映されることがなかっただけで。<br />
　サンプ・サンプ・サンプはジャズのスタンダードナンバーを即興を交えながらそれは見事に弾いていて、ぽろぽろと綺麗に剥がれて落ちるみたく聞こえる筈の音符の一つ一つはサンプ・サンプ・サンプの息を背負っているせいで錆び着いたナイフみたいに切れが悪かった。もちろんそれが良かったのだけども。蒸発した汗と熱気のせいでオレンジ色の柔らかい照明がけぶってた。客席からでもよく見えた。舞台の袖からでもよく見えた。あるいはオレンジの照明がサンプ・サンプ・サンプを頭上から照らしているその位置からでもそれはよく見えたと思う。彼の指先が鍵盤の上を走り、これまでに遅れてしまった分の時間に追い着こうとしているみたいだった。自らの歩んできた歴史を認めてそれを信用すると同時に否定しようとしているみたいだった。自分自身のために。それが無駄な試みであることはきっと彼も分かっていたと思う。その事を忘れるためにサンプ・サンプ・サンプはピアノの練習をしてきたのね。きっと。<br />
　珍しく牧歌的なライヴでの瞬間は結構長いこと続いた。それも次から次へと曲目を切り替えながらよ。音楽のジャンルなんてものは関係なしにピアノで演奏可能なものをサンプ・サンプ・サンプは演奏し続けた。ジャズを弾き終えたと思ったらハウスミュージックのピアノパートを弾き始めたり、それを突然に止めてクラシックの演奏を始めた。馬鹿みたいよね。クラシックを弾きながらトークボックスで何かを口ずさんでいたら本当に有名なピアノ奏者さながらだもの。ただそのピアノの音色でサンプ・サンプ・サンプが喋っていたのはプレイン・ベガスの曲の歌詞で、曲調なんてものは無視して違う譜割りでよく知っているフレーズが歌われていたから、何かが余りにもあべこべでその晩そこにいた誰もが吹き出しそうになってた。でも薄いオレンジ色の照明の柔らかな張力に遮られてみんな呼吸をするだけで精一杯だった。呼吸が意識されているために、この振動している空気は呼吸器官のどこで均されているのだろうと誰もが考えていた。あるいは空気から音楽の振動だけを取り出して、それを呼吸してるみたいだと思った人もいた。振動とは別に和声のはざまを流れている何かがあった。それがメロディと呼ばれているものの真の姿だと誰かが思った。<br />
　もちろん。そのライヴのあいだも夏が続いていた。過ぎ去ってしまった夏を取り返そうとしているみたいな例年通りの夏だった。並行して存在する筈のそのライヴの時間と夏である季節の長さとが何かの対照をなしているようだった。でもそのピアノ・ソロの時間だけは季節の長さと比較不可能な何かとして切り出されているようにも感じた。新しい季節を発明したみたいな。きっと言われてみればそのような瞬間のひとつやふたつくらいは誰だって経験しているものだし、言われなければ考えるまでもないし。<br />
　そこで起こっていたのはサンプ・サンプ・サンプの声と歌詞、それとピアノの音色との協調だった。そのバーのスピーカーから出力されていたのはピアノでもサンプ・サンプ・サンプの肉声でもなく、どちらかの音がどちらかの音に加工されて出てきたもの。どこかくぐもって聞こえるピアノの音色が何かを喋っている。それがトークボックスという楽器の持つ特性だから。元のピアノの音色の透明さがサンプ・サンプ・サンプの声によりもたらされた不透明さにより際立ってた。<br />
　「その時、外で雨が降り始めたことに誰もが気が付いた。地下のバーは外音なんてまったく入らない構造をしていたけれども、誰もが雨音を聴いた。それでいて互いがそのことに気が付いていることは誰も知らなかった。その場にいた誰もが個別に確信を持っていてその事実はそれぞれの現実のなかで揺らぎようがなかった。たとえ、本当はそうであったように、雨なんて降ってなかったとしてもその確信は揺らぐことはなさそうだった。それならばそれで砂嵐やノイズや土埃やチラシや金網や構図や日差しやバスの時刻表やハローやグッバイやそのほかの冗長に続いていく日々の営為をいなしながらまた次の雨を待てばいいだけのことだから。<br />
　つまり外では、あるいはそれぞれの盲信のなかでは、いつかの雨が降っているなかで誰もが次の雨を待っている、そんな夜だった。思い出されることにより降っている雨の、常にその次の雨を待つそのあいだ次の雨宿りを既に始めているその隙にこれから先も思い出されることにより必ず降り続けることになる雨。これまでに降ったすべての雨から雨粒を寄せてひとくくりの天気として、無数の雨粒に映り込んだ無数の光景も含めて、雨が地表と大気の組成物を濡らしている。誰もがそう信じていて、ネヴァダの夜そのものがそれが事実だと信じ切っていた。それでいて雲の欠片一つない月の綺麗な明るい夜だった。<br />
　わたし、その何年か前に一旅行者としてそのあたりに滞在してたことがあった。あの時はジープを駆って大陸を横断だか縦断だかしようとして結局ニュー・イングランドの赤い煉瓦で積まれた工場を結ぶ細い渡り廊下の三十ーメートル下の道路を走り抜けボストンまで辿り着いたんだった。あの時にプレイン・ベガスのライヴを見たのだか記憶がない。わたしがDVDかデータで見たのは自分がその時に見逃した分のライヴだったかも知れない。冗談みたいに長いあいだ車を走らせていた後だったからしばらく北米を訪れることはないだろうな、と思っていて事実そうなった。ある晩、サンプ・サンプ・サンプが気まぐれにピアノを弾き始めたそのライヴに居合わせる時までは」<br />
　そこでわたしは一呼吸置く。あるいは怠そうに左手で右肩を揉もうとする。音声は一切そこに被さらない。だからわたしは歴史の画像的な表層を伝う氏族としてこのように話し続けることが出来る。口元や顎、わたしが喋っているのだかそうでないのだか分からないフレームのなかにトリミングされたわたしの姿を借りて、あるいはわたしはわたしの姿をわたしに貸して、わたしは自分がそのように話しているかも知れないという可能性だけを伝ってそう語る。<br />
　「それが君の氏族の物語なんだね」<br />
　誰かがそう語る声がそこにそう被さる。その時にその場にいないはずの誰かの声。あるいはそれはテレビのスピーカーから流れるサンプ・サンプ・サンプの歌詞か。<br />
　自分の話を笑い飛ばすみたいにわたしは小さな笑いを弾けさせる。笑っているのが分からない角度から切り取られたわたしがそのようにして笑う。わたしはどこかの夏をどこかで過ごしていて、ひとりでひとりの時間を過ごしている。あの男がいつかの土曜日の部屋、ひとりでひとりの時間を過ごしているのと同じように。<br />
　「そんなに厳密な話でもないけれども。それにその氏族が画像的にしか存在しないのであればナラティヴは鑑賞者にしか与えられない。わたしが今ここで自分が喋っていると宣言することは出来る。でもこれがわたしの氏族の物語であるならば、わたしはわたしが喋っていることを喋っているとは限らない。あなたが音楽のなかに見つけた街角の、どこか二階の部屋に住んでいる女の画像的な表層、つまりその女の見た目からあなたがただ単にそんな話しを思い浮かべているだけの話なんだし。もちろんわたしがこのように語っているのかどうかは分からないことなのだけど。もしこれをそんな氏族の物語としてとるのならば」<br />
　それにまだ続きがあるのだから聞けとわたしは言う。あるいはわたしはそんなことを言っているのかも知れない。</p>

<p><br />
10</p>

<p>　「それが君の氏族の物語なんだね」<br />
　他に言うべきことも思いつかず、僕はそう応える。<br />
　歴史の画像的な表層をどのようにか伝って生き延びる氏族。<br />
　自分の話を笑い飛ばすみたいに小さな笑いを弾けさせる。すべてが語る。土曜日の夜、夕食を終えた僕らが食卓で向かいあって座り、それぞれ雑誌でも開いていた時のことだ。その時の風景を切り取るフレームはその食卓の下に林立する机と椅子の脚と生い茂る人間の足が四本と、背後から見た僕の姿と、そして後ろから見たすべての姿のそれぞれに少しパンをくわえたものだ。実際に僕やすべてが喋っている口元が切り取られることがある。その時に僕らが何を語っているのかは関係ない。音声はミュートされている。そして誰かが何かを話しているという可能性を伝ってその氏族が自分の記憶を誰かに伝えようとしている。ある氏族のひとりが自分の氏族のひとりに別の誰かの記憶を伝えようとしている。<br />
　「そんなに厳密な話でもないけれども。それにその氏族が画像的にしか保存されていかないのであればナラティヴは鑑賞者にしか与えられない。わたしが今ここで自分が喋っているということは出来る。でもこれがわたしの氏族の物語であるならば、わたしはわたしが喋っていることを喋っているとは限らない。あなたが音楽のなかに見つけた街角の、どこか二階の部屋に住んでいる女の画像的な表層、つまりその女の見た目からあなたがただ単にそんな話しを思い浮かべているだけの話なんだし。もちろんわたしがこのように語っているのかどうかは分からないことなのだけど。もしこれをそんな氏族の物語としてとるのならば」<br />
　「僕は自分が何を君から聞いているかは分かっているけれども」<br />
　「わたしはあなたが聴いていることを話しているに決まっているじゃない」<br />
　その時には確かに僕の視界のなかで僕に向かってすべてがそう言う。そしてアングルが切り替わる。いつかの春の部屋だ。夜だ。<br />
　僕に対するあてつけですべてが僕に対してこんなことを言う。<br />
　「もしあなたがいまわたしと一緒にいるのならこれは音楽でなきゃいけない筈じゃない」<br />
　「僕が君として聴いている音楽と君のあいだには実際には何の関係もなくてそれでいてその二つは完全に一致するんだ」<br />
　苦し紛れにそう答えようとする僕を遮って、まだ続きがあるのだから聞けとすべてが言う。</p>

<p><br />
11</p>

<p>　ある夏の或る部屋でわたしかわたしにそっくりな誰か、わたしの氏族の一人がこのようなことを話し続けている。わたしがそのように語っていることが可能な角度から切り取られたありとあらゆる画枠の中でわたしはきっとそのようなことを話している。<br />
　「それにそのピアノソロが行われた晩だって、そんな音が流れていたとは限らないじゃない。それがわたしの氏族の記憶としてわたしを含んだものとしてそこにあるのならば、そこにあるのは薄いオレンジの光りのなかで取り憑かれたようにピアノの鍵盤を叩き続ける一人の男と、その照明をぼかしていた熱気と、二百人からのオーディエンスがそれぞれ着ていた服と、ステージと対面する位置にあるバーカウンターの所在を示す明かりと、概ね直方体の空間と扉の向こう側の階段の先の地表と大気の組成物を濡らしていた雨と、雲のかけら一つない綺麗な明るい夜と、新しい季節の発明と、幾つものグラスと、その中で溶けた氷と、薄くなった酒と、その酒みたいに程よく薄いオレンジ色の照明がその手を伸ばして誰かの目に向けて折り返していた黒い壁のテクスチャーがあっただけでしょ。そこに音楽が流れている必要なんてなかった。その光景はまるっきり音を伴わない一つの歴史の画像的な進行としてあったわけだから。その夜がわたしの氏族の物語であるのならば、わたしはその場所で行われていたライヴのその演奏を聴くことによってその映像的な記憶に行き着いてそれがわたしが語ったような夜を孕むと同時にそれを生み出していた。それは現実の景色に寸分違えずに重なってそこにあるわたしの氏族の記憶で、わたしがその記憶について語っていることはその記憶自体が逸脱しているという意味でもある。それともわたしはこんな話をしているのだとは限らない。大事なのはわたしがこんな話をしている可能性の方だけれども。<br />
　でもわたしはあの夜に実際にネヴァダに居たんだよ。繰り返すけどそれが確かなこと。<br />
　わたしが今こうして話しているのは、あなたとわたしが暮らしている土曜日の夜のことではなく、わたしがある夏に住んでいた六畳間のアパートのなか。知らなかったら教えてあげるけど、あなたもわたしもそれぞれの部屋でひとりっきりでいる。<br />
　あなたがプレイン・ベガスの『トーキン・ベガス』を聞いて生じているいい加減な街角のどこかの区画の二階の六畳間でわたしが過ごしていたいつかの夏から、ひょっとしたら存在した試しのない夏から、それが存在しないことを頼りにそれを探すことができるような何かのなかから、わたしはこんなことを話している。あなたが聞いているのだろうとわたしが思っていることをわたしは話している。あなたが歴史の画像的な表層を辿って生き存える氏族の存在なんてものを受け入れるのならば」<br />
　わたしの氏族の一人がわたしの姿と過去と記憶を借りてネヴァダの片田舎のバーで酔っぱらいをいなしていた夜のようにわたしは酔っぱらった日常をいなしていく。わたしの氏族のひとりがたった今わたしの姿と現在と記憶を借りてこのようなことを話し続けているという可能性を辿って、わたしは氏族の記憶や記録とはまた別に生き延びていく。<br />
　わたしはその男がプレイン・ベガスのアルバムを聴いて思い浮かべたひとりの女として、自分の氏族の物語とわたしの過去と現在と記憶とがある程度交叉する部分の逸話をその男に対して語り続ける。わたしがこうして語ることが出来ている以上、わたしは今のところはまだそのようなものとして思い浮かべられているのだろう。そしてこれが人々の日常や歴史の様々な場所に散って存在するわたしの氏族の物語である以上、また別の機会に於いて違うわたしの話を聞いているまた別の誰かがいるのも確かなことだ。これがこのいつかの先の土曜日の部屋でわたしと物憂い時間を過ごしているその男が本当に聞きたいと願っている物語なのかどうかは分からない。それはその男がわたしの姿を誤って思い浮かべている所為だとは思わない。所詮それはわたしの過失だ。誰かに思い浮かべられたわたしが自由に語ることが出来ていないと言い張るつもりもない。先にも述べたようにわたしは自分の氏族の姿を借りて、自分がこのように語っているという可能性を辿ってこのように益体もない話を続けている。そのような可能性を歴史の画像的な表層から選択し続けているのはこのわたしだ。その責を誰にも負わせるつもりは毛頭ない。わたしをこのように語るものとして思い浮かべているいつかの土曜日の部屋に一人でいる男に対して感謝の念をしかわたしは抱いていないし単にそこで立ち止まるつもりもない。<br />
　『それは何も起こらない日々だった』<br />
　雑誌からの切り抜きはある夏の部屋の壁に張られたままだ。それはこの物語の始まりから変わっていない。この物語が始まってからこちらではまだ殆ど時間は経っていないのだからそれは当然のことだ。わたしはずっとここにいて、幾つかの夏を透かして見ながら今は土曜日の部屋にたった一人でいる男に対してこうして話しかけているだけだ。<br />
　『それは何も起こらない日々だった』<br />
　わたしはそのような言葉に騙されながら生きて来た。そのような言葉に誑かされることを選んで来た。だが、そのような言葉でこちらから誰かを騙したり本当の痛みや苦しみや感情であるものを均したりするのはもう御免だ。何も起こらない日々のなか生起するものの姿をわたしは話し続けたい。それでも何も起こっていないという縁にいつでも立っていたい。それは単に目印のようなものだ。様々な音楽の端々にその男がそのように話し続けるわたしを見つけ出すだけのことであっても。わたしはそれが可能である歴史の画像的な表層を執拗に追い続ける。わたしはそのようにして歴史の画像的な表層を描き変えていくつもりだ。そうしてわたしはもう一度自分の身体を取り戻そうとしている。わたしのその決定を覆すことなど誰にも出来ないわけだが物事はわたしを中心に回っているわけではない。自由意思の重たいうねりのなか、わたしはこのような言葉を発する小さな欠片でしかない。そのわたしが存在することのない中心を定めそこに近づこうとしてこのようにして音を連ねる。そしてこの発音から想起されるものが本当のわたしの姿であるのかどうか、その判断をわたし自身は請け負っていない。いつかの夏の部屋で口許の見えない角度から映し出されたわたしの氏族がこのように語っている可能性があり、わたしはその可能性を能動的に選択している。</p>

<p><br />
12</p>

<p>　ある春の或る部屋ですべてかすべてにそっくりな誰か、すべての氏族の一人がそのようなことを話し続けている。すべてがそのように語っていると解釈することが可能な角度から切り取られたありとあらゆる画枠の中で僕はそのような話を聞いている。時にはすべてが僕に実際に話しかける場面が流用される場合もある。皿を洗ってよとか空き缶を片付けてとか別の長話を構成する台詞を吹き替えて、すべてはすべてが僕に対して話していることを話す。<br />
　「もしあの夜がわたしの氏族の記憶に含まれるものだったら、ステージの上にいたのはプレイン・ベガスでもそれともプレイン・ベガスが扮していた『エヴリシング』というアルバムをリリースしたバンドでも構わないことになる。でも『エヴリシング』アルバムリリース時のライヴではサンプ・サンプ・サンプのピアノソロなんてなかったし、そんなものアルバム自体にも含まれていない。だからあそこに居たのは正真正銘のプレイン・ベガスということになる。でもそこでどんな音が鳴っていたのかは分からない。そこでどんな音が鳴っていたのかを説明することは出来る。でも自分がそのことについて喋っているという確証はない。現にあなたがこうして喋っているわたしを見ている限り、わたしはあなたが聞いていることを話しているとは限らない。<br />
　いやわたしがあなたが聞いていることを話していることは、いまあなたがわたしが話していることを聞いているのと同じくらい確かなことなんだけど。<br />
　それはわたしがあのネヴァダの夜にいたのと同じくらい確かなんだけど。<br />
　でもあのネヴァダの夜ってどっちのネヴァダの夜のことかしら。わたしがロードトリップ中に立ち寄った礫砂漠の縁の田舎町の裏ぶれたバーの安ワインを飲み干そうとしていた時のことかしら。それともそれから数年後にプレイン・ベガスのライヴの取材に行った時のことかしら」<br />
　そう話しているすべての髪の毛に砂が絡まり始める。どこからか吹き寄せられて、決して片付くことのない一分のどこかで、地表のどこかで、海底で、肌の上で、指で絡め取った髪の毛の先で、春の土曜日の部屋で、あるいはいつかの夏の部屋で。<br />
　あるいは傍目にはそう話しているように見える架枠に切り取られたすべての氏族の髪の毛に砂が絡まり始める。黒い髪の毛が砂粒を巻き込んで幾束かの斜線となり流れる。話しながら頭に手をやるすべての指先から髪の毛が勝手にほつれ砂が床に落ちる。畳に落ちた砂を指先で弄びながら自らの氏族と姿を重ねてすべてが語る。<br />
　「わたしが初めてネヴァダを訪れてワインで悪酔いしているときにもプレイン・ベガスがかかってた。ジュークボックスで彼らの曲を選んでいるわたしの姿が氏族の記憶としてどこかで見つかるはず。わたしはそのようにしている自分の姿を思い出すことが出来る。あなたはプレイン・ベガスのアルバムのどこかにそのようなわたしを含んだ心象を見つけ出すかも知れない。そしてわたしの記憶と氏族の記憶がぴたりと重なり合うことなんてない。そしてそれはわたしの方の手落ち。でも、氏族の記憶なんて！ 歴史の画像的な表層を伝って生き存える氏族の記憶が不確かだとしたら、いったい何を信じればいいのかわたしには分からない。その時にだって自分が何かを信じることを決めると分かっているにせよ。<br />
　「すべての音楽のなかに女の姿を見てしまう男がいて、その女が語る物語がある」<br />
　その時にすべてが僕の目を確かに見据えるカットが入る。<br />
　「曲によって少しずつ違う女の姿が現れる。その男はその女をそれぞれ違った光景のなかに見つけ出す。砂漠を渡る隊商の列に、ライヴが行われているバーの混雑の中に、その男はその女の姿をいとも簡単に発見する。まるでその女がいるからその場面が生じているかのように信じて。「ノータウン・レコーズ」。あの曲でシャッフルが行われる時にはどこにその女の姿を見つければいいのかその男には分からない。けれどもどのようなシャッフルが行われているにせよ、そのパートの一つ一つが正しい配列を示唆している。互いに噛み合わぬまま同時にそれよりも多くの正しい配列が示唆されることもある。そこに正しい組み合わせが存在するという事実を担保に、一曲を構成する四十のフラグメントをパート毎にシャッフルして演奏する。もうひとつ考えられるのは「ノータウン・レコーズ」のフラグメントにはそもそも正しい組み合わせなんてないのかも知れないということ。アルバムに収められているヴァージョンそのものがシャッフルされた状態のものかも知れないということ。それは過去が変わることなのか、それとも自分たちが間違えていたことになるのか。それは両方とも同じ意味かも知れない。<br />
　メンバーが一人ずつスタジオに入って既に録音されてあるものに自分のパートを重ねて録り溜めた『イーヴン・ラスベガス』を覚えてるなら、あのアルバムの裏ジャケットの曲のリストに添えられていたレコーディングされたパートの順番が不正確だったことも覚えているでしょう。「B→G→V→D」だったら「ベース→ギター→ヴォーカル→ドラムス」の順番で録音されたことが示されてあるんだけど、それがことごとく間違えているというあれ。あれだって一つのシャッフルになる。録音された順番により曲の解釈は異なる。例えば、あそこのギターリフは前の小節のベースを追いかけたものに違いない、けれども表記ではギターの方がベースよりも先に録音されたことになっている。ならばあのベースのフレーズは次の小節に来るギターのリフを捕まえようとしてそのように刻まれたことになる。そんな箇所があちこちにある。だからあの表記はあのアルバムに含まれた音楽の聞こえ方に少なからず影響を及ぼす。あれも『イーヴン・ラスベガス』というアルバムを構成する要素の一つ。そんな浮遊感のなかでどうやってあの男はその女の姿を捉えようとするのかしら。そんなことを言い捨てる女の後ろ姿はひょっとしたらその録音された楽器の順番の表記の方に宿っているかも知れないじゃない」<br />
　始めからそうだったようここまでに語られたものとは異なる有り触れた日常の会話が僕とすべてのあいだにある。<br />
　知らぬ間に音楽が止んでいてそれでもなおすべては僕の目の前にいる。<br />
　いつかの夏の部屋で話を終えたすべては伸びをしてこの部屋にあるのと同じマグカップに残った紅茶を飲み干す。時刻は午後九時頃。瞬間彼女は自分が夕食を済ませたのかそうでないのか本当に分からなくなる。どちらにせよ何か軽食を買いに行こうと外に出る。その時に隣の部屋のチャイムが鳴るのが聞こえる。それを合図にすべてが含まれている光景に音声が甦る。砂嵐を流したままのテレビを消すと半開きになった窓から野鳥の鳴く声が聞こえる。スニーカーをつっかけてアパートの階段を下りる。それがすべての姿なのかもう判別はつかない。人生のサウンドトラックが蘇る。<br />
　僕やすべてが歴史の画像的な表層を伝って生き存えて来た氏族に過ぎぬのだと言い張るのならば僕は自分の能力の許す限りすべての言い分に反論する。それが結局は歴史の画像的な表層を更新していく作業に取りかかるということしか意味していなくとも。ならば僕はその画像的な表層を更新するという作業を通して、力の限りすべてを肯定しながら、同時にすべてに対して力の限り反論する術を見つけようとする。<br />
　それよりも目の前にいるすべてを見つけるほうが先決かも知れないけれども。<br />
　<br />
　もう一度音楽をプレイン・ベガスのアルバムをかけようとするすべての手を取り、今日はもう寝よう、と声をかける。<br />
　その晩には僕が先に眠りについた。あるいはそれは僕の夢の中の出来事だったのかも知れない。翌朝目を覚ましたらまずはそのことについてすべてに訊ねてみようと、小さく短い眠りのなかで時折小さく目を覚ます僕はそう考えている。</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">2012_03</category>
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         <pubDate>Fri, 02 Mar 2012 03:34:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111114  - a song - 28</title>
         <description><![CDATA[<p>　さて、一眠りする時間がやってくる。<br />
　ほんの一時間ばかりの短い睡眠だ。<br />
　眠ったうちに入らないくらいの。<br />
　それでも睫毛を切り落とされるいつもの夢がやってくる。<br />
　目を覚ます。<br />
　いつもより長くゆっくりとした夜歩きに備え、あたしは時間をかけて身支度を整えることにする。終電を逃せば歩けばいい。まだ乾ききっていない髪の毛を束ねて上げて帽子で押さえる。もうすぐ秋も終わる。<br />
　姿見のなかで外装を整える。<br />
　その時は自分の体の動きに焦点を合わせる。<br />
　そして、自分にとってすでにそこにあるものを代表して、それとも、まだそこにないものを代表して、あたしは速さを惰性に変え、自分の体内の仕組みのなかで複雑に入り組んだ角を曲がり切ることにだけ専心して鏡の中で体を動かす。<br />
　体を動かしながらも、たぶん複雑に入り組んだその角を曲がり損ねた部分が外側にはあたしとして見えているのだろうなと思う。自分をそのように定義すれば自分のなかの慌ただしい活動がほんの束の間整理される、その模様が言葉として起こされる。<br />
　少し眠り疲れも取れたが、眠りの分だけ疲れが溜まる。<br />
　それが絶対に発散されることのない力の正体だろうか。これまでに眠ってしまった分の疲れ。それを癒すために起きている時間の大半を使う。眠っているあいだには時間しか流れているものがなくて、眠りは死に似ているから。<br />
　あたしはそれを解決しようと夜歩きに出掛けて、それ以上の問題を抱えて帰宅することになると分かっている。<br />
　そう考えるとそうとしか思えないが、だからと言って何なんだとしか思えない。<br />
　そしてあたしはいつか誰かがその正当な理由を耳打ちしてくれると思っていたが、どうやらそんなことは起こりそうもないので、あたしはその理由をいつか誰かに勝手に耳打ちすることに決めた。<br />
　それがいつどこでかのことは分からないが、それはいつの時点でも起こっていないし、いつの時点でもずっと必ず起こりうる。気分的にはその可能性を軸に回る自分の現実の舵をあたしは取る。<br />
　あくまで気分的には、ということなので傍目にはあたしはただの趣味人に見えることだろうが、似たようなもんはそこかしこに存在するのだとあたしは勝手に思っている。<br />
　そうしてカーブを曲がり損ねた部分が人目に触れて、あたしたちは進路を調整する。他の人が曲がり損ねたカーブをどうにか後付けで自分が曲がれるとでもいうかのように、いつも自分を信じている。<br />
　そしてそれは他の人が本来そのカーブを曲がり切ることが可能だったと信じているからそうするのだ。そうしてまたカーブを曲がり損ねる。<br />
　あたしがどこかの仕組みのなかでカーブを曲がり損ねた結果、巻いたストールがほどけて床に落ちる。そしてそれは単にあたしの睫毛の外側での出来事だ。あたしの主観から取り外せないはずのそれを、出来事として取り外して考える。自分の部屋で自分ひとりでいるときにだけあたしはそれを行うことができる。<br />
　それから内側から扉をくぐり人間の姿に戻ったあたしは、四階まで昇り樫に声をかける。</p>

<p>　　　（了）</p>]]></description>
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         <pubDate>Mon, 14 Nov 2011 00:32:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111113 - a song - 27</title>
         <description><![CDATA[<p>　一枚の絵があり、それは都会から見上げた夜空と星々を描いたもののようにも、あるいはそれは夜空から見下ろした都会の灯りのようにも見える。<br />
　別に待たれてる筈はないのだがこの街の夜自体に待たれている気がして表に飛び出していた時期があり、それは今でも雨が降る時のように起こる。絶対に発散させることのできない否応のない力があり、それを使い果たそうといつも頭を使おうとしている。それかその逆か。<br />
　流しも綺麗になり生きる希望が沸く。次は風呂場だとか山積する問題はいつも風に吹かれているのだが、そのような埋めるべき余白がいつでもあるのはいいことだと思うことにする。だから空白に取り囲まれている今の暮らしを前向きに捉えることができる。その空白が何の余白かあたしは割り出せばいい。これが何の余白であったかをあたしは割り出さなければならない。そのための時間などはなく他のことをしながらでも。それが現在というものにいつも付きものだったと分かりつつ。<br />
　睫毛用のタオルがかなり溜まっているのでそれも手洗いすることにする。他の洗濯も一緒にやってしまうことにする。そうして夕飯前の時間が何となく忙しく過ぎ去っていく。内容は分からないけれども、何かの過程のその途中を過ごす。<br />
　洗濯にかなり時間が取られる。<br />
　手洗いの洗濯物を脱水にかけ終わったのが九時五十分くらいで、夕飯を食べ終えたのは十時二十分、あともう少ししたら一眠りしなければならない。その後に夜歩きだ。<br />
　自分の睫毛が昨晩の映画の字幕を通して語った予言を充足させるためにあたしはそうしようとしている。仕事はなるべく急ぐが、他のことはゆっくりすることに決めている。<br />
　あたしがこの後で取る午睡のなかで再び誰かに睫毛を切られる夢を見るとあたしは知っている。そう予言されているわけではなく、ただそうだと分かる。<br />
　鼻歌を歌いながら立ち上がり皿を流しに置く。それから自分に鼻歌を歌うという機能が備わっていたことを思い出して動揺する。それはしばしば起こることだが、日常に驚きがあるというのはとてもいい。鼻歌を歌っていない時は単に鼻歌を歌っていないだけだ。譫言なら始終漏らしているし自分のなかで採算は取れている。<br />
　睡眠を取る前にシャワーを浴びる。灯りを落としたまま浴槽に踏み込み、シャワーヘッドから落ちる水が睫毛に触れて束の間光るのを見る。<br />
　見覚えがあるのではなく、記憶にある何かの光景を見忘れたと感じることはできるのだろうかと考える。それもいつもの話なのだろう。自分が実際に見た物が見忘れたもので、他のすべてのものは見覚えがある。だから実際に見た物しか意味がない場合もあるだろう。あたしはそのようにして自分を納得させる。<br />
　タオルを頭に巻き、椅子に座り、ノートパソコンを閉じて、冷めた珈琲を飲む。これから眠ろうというのに珈琲を飲んでいるのだから不注意にも程があるが、これはあたしの習性だ。<br />
　睫毛が一本落ちて珈琲カップに落ちるが何も起こらない。<br />
　そのような幻影を見ることもきっとあるのだろう。</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">2011_10</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">a song</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 13 Nov 2011 00:00:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111112 - a song - 26</title>
         <description><![CDATA[<p>　そして都会の空白をあたしの睫毛が勝手に埋めていく。<br />
　完成していないものをあたしが勝手に完成させていく。<br />
　これがあたしの行き着いた先でありここが出発点だ。<br />
　多分あたしの課題は睫毛の見ているものを取り払うことではなく、睫毛が見ているものを理解することだ。孤独を憎むことは他のすべてを憎むことだ。他の人の孤独を含めて。<br />
　他の人の孤独に対して積極的な感情を向けることはできなくとも、自分にあるものを対処することによりどこかで何かが交わるかもしれない。<br />
　空っぽの理解を示すことをあたしは本当は憎んでいる。知った振りして頷くことをあたしは憎んでいる。何かの同意や反応を示す時、自分が何について頷いているのか分かっていないというのは気味が悪いことだ。だからこの気持ちは一生つきまとうのだと思う。<br />
　その場その場の感情のなかだけではなく、状況の流れの中にも人は生きている。自分が対処できるのは流れの方だけだという気持ちが強くある。それでいてその場その場の感情をしか何となくあたしは受け取れない。そこで矛盾が生じている。それを都会のコントラストと呼びたければ呼んでもいいけど、こちらにとっては感情の死活問題だ。<br />
　そんな思いも流れの中でしか対処できない。<br />
　だからこそ悲観はできないのだけど。<br />
　物語の冒頭近くの始発電車のなか、蛍光灯の明かりに均されていた空の色の微細な変化のように、その変化を時間の大まかな経過のなかで捉えて外の状態の前後を確認する。<br />
　あるいはいつかの自室でカーテンを壁から浮かせていた日光がランプシェードを通した明かりを均そうとしていた時のように、真夜中の自室に灯っていたそのランプの色を忘れまいとする。<br />
　あたしに対処できるのは前者のほうで、あたしが覚えていたいのは後者のほうだ。<br />
　あたしが印象として操作できるのは後者のほうで、あたしが本当に忘れていくのは前者のほうだ。<br />
　単にそのような個人的なコントラストのなかにこの都会があるだけで、都会のコントラストなんていう気障な言い方のなかには殆ど何もない。せいぜいあたしくらいしかない。そしてあたしはその明暗のコントラストを掻き分けて何かを掴もうとして、結局は繁華街へ向かう切符ぐらいしか購うことができない。<br />
　そして辿り着いた街の真ん中でしばらく馬鹿面を下げたあと、また自室に戻る。ひとりの時間が待っている。それでも自分の孤独を理解するには足りない。<br />
　あたしが遠回りにでも他の誰かの孤独を理解しようとするためには、こうして話し続けることくらいしか方法がない。<br />
　午後九時少し前にさっき立ち上がった時に淹れた珈琲をのろのろと飲み終わる。そろそろその日の二食目を用意する時間だ。<br />
　さっき流しに放ったままの皿とフォークとフライパンを洗う。一食目と同じメニューですますことにする。ついでに流しに溜まったコーヒーカップを洗う。</p>]]></description>
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         <pubDate>Sat, 12 Nov 2011 00:33:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111111 - a song - 25</title>
         <description><![CDATA[<p>　日はとっくに落ちていて時に冷蔵庫のモーターが鳴る。まだ仕事の区切りを付けるのには早い。午後四時に起き、いまは午後七時でその日の二食目をとる時間ではなかった。その日の一食目は楽をしたい時はいつもそうする通りB&B形式の軽食で済ませた。皿とフォークとフライパンは流しに放りっぱなしになっている。小食なうえに食事を摂ることを忘れがちなので洗い物はそれほどたまらない。コーヒーカップは無駄に幾つも持っていて、洗い物を怠るので乾燥した珈琲が底にこびりついた陶器や磁器が涸れたステンレスの水槽に溜まる。<br />
　立ち上がるのが面倒な時にはカップを流しに向けて放りたくなる。<br />
　休憩がてら珈琲を淹れることにして、湯が沸くのを待ちながらキッチンが見える位置からこちらを目にやる姿見の中の自分に目をやる。襟首の伸びきった部屋着のTシャツに睫毛が勝手に模様を浮かべている。現実の定義にもよるが超現実的と呼んでもいい。それともそれは超現実的のほうの定義だけで収まるのだろうか。一枚のコインの裏表だがコインは固定されていて、表裏を見るためにはいちいちその回りを歩かなければならない。<br />
　もとより服を着ることには現実に超現実的なものを描き足す用途が多分にある。それを現実と呼んでいるのだから境目など初めからあってないようなものだ。<br />
　あたしが服飾に興味を持ったのもそのような理由もあるのだと思う。誰かが着ている無地のシャツに睫毛があたしの無意識を映し出す。大抵はそこには洋服のパターンと呼んで差し支えのないものが浮かぶ。最近ではそれをスケッチもしなくなったが。<br />
　そして服を着るという行為や、他の身体的な装飾の行為は、あたしの睫毛が外側にあるようなもので、好みと創意次第で大体好きなものを見せることができる。こう水を向ければこれはどこまでも適用することができる話だ。そしてともあれそうすることによって生じるものが現実の範疇におさまるとされていることが重要なのだとあたしは思う。<br />
　湯が沸く。<br />
　あたしはあたしの睫毛の持つ作用についてもう一度考える。<br />
　あたしの睫毛はあたしの無意識を視覚化して現実に重ねる。<br />
　あたしは自分の無意識のその過剰な部分を視覚から除去することができる。<br />
　その括弧付きの現実にしたって何らかの拘束のもと自由に執り行われている。時に応じてある程度は柔軟であることができるという裏返しの拘束により。そうして目に見える形での誰かの妄想に日々触れているが、それについてはこれまでもこれからも実は話し合う暇すらろくにない。<br />
　固定された睫毛の働きを外側に持ち出すような日常の営為により現実の領域を広げることは可能で、あたしは翻訳という作業を通して英文から和文を割り出し、それをほとんど誰にも顧みられることのない片隅で進行させる。何かを付け足す、という言い方は余り正確ではないと思える。<br />
　あたし自身は現実の部分でも全体の一部を不可分に成すものでもなく、部分か全体の一部を不可分に成すなにものかのなかでの範囲を定める定義の組み合わせにより成り立っている。あたしは現実に生えた睫毛だ。<br />
　自分に被さるそのような定義をあたしが憎んでいるということは話した。<br />
　珈琲を机に、あたしは持ち帰る。<br />
　関係の圧力のなかで自分を内側から押し返し自分は自分であると主張している力。<br />
　それを裏返しにしてそっと外側へと向ける。<br />
　今は姿見を見ているからそれが自分に返ってくる。<br />
　姿見のなかのあたしがモニターに視線を戻すのをあたしは興味深げに見ている。<br />
　睫毛を挟んでのことなので、姿見のなかで作業を続ける自分と珈琲を飲みながらそれを見ている自分の関係が逆になることはない。<br />
　それからあたしはモニターに視線を戻す。</p>]]></description>
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         <pubDate>Fri, 11 Nov 2011 00:52:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111110 - a song - 24</title>
         <description><![CDATA[<p>　前にも話した通りあたしは都会を記そうと試みて幾度も挫折している。<br />
　改めて頭を整理してみて都会をあたしに印象づけているのはコントラストだ。何かと何かの対比。<br />
　そこにあるものとそこにないもの。闇と光り。闇夜に浮かぶ星。夜闇を照らす街灯。あるいは星と星空。ビルとビル群、人と人々。糸口の切り口と口を切った糸口の導く道。時間と経過、記憶と時刻、散歩と昼寝、掃除と炊事。都会の暮らしはそのようなコントラストのなかで過ぎていく。それらのコントラストが記憶されその夕方のあたしが住んでいるこの街があたしによりまたもや空想されている。地名や駅名や角の名前では捉えきれないものをあたしは漠然とした一般的なものとして思い浮かべる。多様さを求めているせいで怠惰になっていると言い訳しているが、その怠惰な認識に対して真摯に立ち望もうとしているのだからわれながらふざけていると思う。<br />
　白夜と白昼。複数の何かがいつかどこかで歪んでいるそんなコントラストを持ち出すことも出来る。威張ることではないがあたしのように昼夜逆転した生活を送っているものにとってみれば昼の時間は白夜のようなものだ。そこにもコントラストが生じている。言うまでもなく、あたしがそのように考えているそのせいで。<br />
　あたしはずっと同じ事を考えてきた。<br />
　そのように物事を捉えることを幼稚だとか感傷的だとか非現実的だと一笑に付すことはきっと容易い。あたしはそのような領分を越えて話すことだけをずっと考えてきた。話の内容がそれに付随するものでしかないときもある。それでも新しい領分では新しい技術が育つ。<br />
　今はまだ伝達可能な信号の種類は限られていても十分な複雑さを生むに足るTPOはばらけてそこにある。もし例え単純なオンかオフの信号しか送れなくとも、人が違えば仕組みが違うので、それが独善的な主義主張を助長するものになるとは思えない。もしそれがそうだというのならば、今までにあたしたちが話してきたすべてのことがそうだということになる。調整に必要な細かなカーブを処理しつつ、何かをひとまたぎにする。<br />
　コミュニケーションというお題目を扱うのにそれでは余りに大雑把であるという思いもある。<br />
　けれども翻訳というあたしの職能ひとつとってみても、文章の解釈があり、訳語の選択があり、それが和文でのニュアンスを生み出し、そのニュアンスを留めておくために前後を整理しながら字数で音数を調える。呼吸をあたしは処理している。意味を通して。<br />
　あ・うん、が繋いでしまっているものの得体を知るために同じ言語のなかで翻訳を繰り返し、辞書のなかを何遍も回ってしまっている。なので、あ・うんで済んでいる。辞書が違うことは強みでしかない。希望よりももっと力強いものがあるとあたしはそう思っている。<br />
　都会を記そうというあたしの試みは結局はあるものとないものの違いを話すだけの試みでしかないと思うことがある。<br />
　翻訳の作業に行き詰まり珈琲をすすりながらあたしは部屋を見渡す。<br />
　この部屋にありあたしが理解が及ぶ全てのものは失われたもので、残りはここにないか、あたしがそれについて分かっていないかのどちらかだ。あたしが目にして理解するものごとのひとつひとつをあたしはこれまでもそして今もとりこぼしている。どこかの都会にある部屋の一サンプルとしてその意味合いを理解できる範囲においては、この部屋にある全てのものはあたしの仕事ではなかった。そしてあたしの理解などたかが知れている。そのことに対する理解すら危うい。そしてあたしの誤解は計り知れない。</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 10 Nov 2011 00:18:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111109 - a song - 23</title>
         <description><![CDATA[<p>　アンナはあたしに原稿を渡す前に確認をしなかったのだろうか。普段アンナから回ってくる仕事は文化の形象にまつわる英文の記事やインタビューの翻訳や、それか対訳付きの年鑑の和文英訳であることが多かった。普段とは仕事の性質が違ったが、ちょうど前の書籍を入稿したばかりで凪の時期だったし、払いも良かったので仕事を断る理由はなかった。<br />
　漠然とした疲れを好むとは言っても、作業中の自分の打鍵音を聞くのが嫌いではないということに気付いた。その夕方は自分がノートパソコンのキーボードを叩くペースに焦点を合わせて活動した。<br />
　十本の指でパーカッションを叩くみたいに鍵盤を打つ。<br />
　画面上の言葉がその音に被さる。実際にはローマ字かな変換を採用しているので、打鍵の数と画面上に現れる文字の数は一致しないのだけれども。<br />
　自分の訳文が気に入らず、デリートキーを押す時に一番趣を感じる。普通の文章を打つ際には打鍵のリズムは散らばってまちまちなのだけど、デリートキーを押すリズムはいつも一定で、あたしは消したい文字数だけデリートキーに触れる。迷路で間違えた道を選んだことに気づき、来た道を猫背でとぼとぼと引き返すみたく、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とそのキーに触れる。<br />
　こんな虫食いの文章が出てきた。<br />
 　“And sometime a day will go by quietly at that house (o’) altitude”<br />
　明らかにあたしの睫毛は間違えた単語の選択をしている。<br />
　あたしが見えている通りに訳せば、<br />
　「そしていつか一日はその家で静かに過ぎ去るだろう、おお深遠なるかな」<br />
　になるが、<br />
　実際は、<br />
　“And sometime a day will go by quietly at the house (of) altitude”<br />
　「そしていつか一日が高台にあるその家で静かに過ぎるだろう」<br />
　と言う文章の方が自然だ。<br />
　とは言え”o’”を”of”を省略したものと捉えることもできる。<br />
　すでに自分が失われたものに囲まれて暮らしているとしたら、この目の前にあり、あたしの睫毛により空白を補完されている原稿は一体何なのだろうか。<br />
　その原稿の筆者は単語を削り自分の原稿を途切れ途切れの文脈は持つが未完成である状態に戻した。意味が意味に縛られることがないように。そのように想像してみる。<br />
　そしてあたしの目の前にあるのは完成されていないが故に理解の及ばない都会の姿であるはずなのに、あたしの睫毛がその欠けた部位を補い、既にあたしが知っている意味にあてはめて読んでしまっている。<br />
　睫毛を一本抜いてみる。<br />
　睫毛を抜いた感触はある。<br />
　けれども親指と人差し指のあいだに挟まっているはずの睫毛はそこにない。<br />
　睫毛がそう見せているのだ。<br />
　と諦念半分自嘲半分の気持ちでいたら、腿の上に落ちている睫毛を一本見つけて何だか馬鹿らしくなる。</p>]]></description>
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         <pubDate>Wed, 09 Nov 2011 00:29:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111108 - a song - 22</title>
         <description><![CDATA[<p>　“So tired from the sleepless nights off the city”。<br />
　カーソルの点滅を見ながら思う。<br />
　あたしの心情的にはその空白が”off”で埋まっており、「街から取り外された眠られぬ夜に困憊して」という文面になっている方がよかった。<br />
　というのは、身の回りですでに実現されて自分の理解が及ぶものに関しては、既に自分が取りこぼしたもので、その意味でそれらは既に失われてしまっているものだからだ。あたしのこの考えも含めて。<br />
　そんな漠然とした疲れの方が良かった。<br />
　まあ。<br />
　繰り返すがそのような漠然とした状態であたしは疲れていたかった。<br />
　街から取り外された夜のなかにいたかった。<br />
　だがあたしの睫毛が見せる幻影により虫食いの英文が完成して、そこに"so tired from the sleepless nights (of) the city"という文面が浮かぶ。<br />
　もしあたしがその気ならば文字の消し痕を先の丸まった鉛筆でなぞりその下に何が書かれていたのかを自ら明かすべきだろう。下のインクごとそぎ取らないように修正液を剝がすべきだろう。<br />
　それでも睫毛がそこに見せる単語により完成する文章の意味と、そこに別の単語を入れた時に成り立つ文章の意味の違いを楽しむのも乙だった。<br />
　その対比は現実に対して異なった解釈を与える。<br />
　正確に言えば、現実の樫の絵と、あたしが夢で見た樫の絵に対して。言うまでもなくと言うまでもなく、そのどちらも現実だ。<br />
　樫の描いている絵がどこか違った地平から見た夜空だということは分かっているが、先程見た夢の中ではそれは街の灯りだと諭されあたしもそう信じた。夢のなかあたしはその夜空を夜景だと捉えた。<br />
　「街から取り外された眠られぬ夜」ならばそれは別の星の地表を成す荒野での眠れぬ夜、という意味に取れる。そこで寝転んだらあの星空が見える。<br />
　「街の眠られぬ夜」ならばどこかの街、ひょっとしたらこの街の眠られぬ夜そのものの景色、という意味に取れる。空から見たならばこの街の夜景はどこか違う地平の夜空と同じように見えるのかも知れない。”nights”と複数形だから幾重にもぶれて見えているのかも知れない。<br />
　午後四時半に珈琲を飲みながら考える。そして仕事の続きに取りかかる。<br />
　この後であたしはもう一度夜の街を歩くことになる。だから一仕事終えた後、午後十一時から日付が変わるまであたしは午睡をとることになる。きっとそれから終電に乗り込むのだろう。それは昨晩の映画館であたしの睫毛があたしに教えてくれたことだ。<br />
　「昼寝から目を覚ましたら」<br />
　と女優の台詞をなぞる字幕が言う。<br />
　「散歩に出るわ」<br />
　とあたしの睫毛が字幕をそのまま借りて予言する。昨晩のあたしはそれを信じることにした。その後に出歩く前には昼寝をする暇なんてなかったし、今は一晩中歩いた疲れが残っているので後で小一時間ほど仮眠をとるのは難しくないだろう。</p>]]></description>
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         <pubDate>Mon, 07 Nov 2011 23:55:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>20111107 - a song - 21</title>
         <description><![CDATA[<p>　翻訳原稿に含まれる空白の箇所も厳然たる空白であることはなく、修正ペンで消してある箇所もあれば、インク用の消しゴムで消したと思しき箇所もある。<br />
　その痕跡にあたしの睫毛は何の手も加えられていないさらのルーズリーフの紙面を見て、そこに前後と同じ筆跡で英単語が記されているのを幻視する。あたしが無意識的に前後の文脈から意味を補完して読んでいるという可能性もある。睫毛はそれを見えるようにしているだけだ。<br />
　睫毛が映画の字幕を使ってあたしに話しかけてくるように、睫毛が文字を勝手に置き換える。本に連ねられた単語の幾つかを置き換えて、あたしの睫毛があたしに話しかけてくる。その場合は置き換えられた単語の下に何が書かれているかは分かるので特に問題はなかったが、小学生の頃から字幕のついた映画の鑑賞や読書というのはあたしにとってはそのような経験だった。睫毛があたしに見せようとしているものを見る。そして睫毛はあたしの無意識を無意識のうちに反映して見せるものだ。つまりあたしは自分が見たいと思っているものを見る。それは他の人のやっている事と変わらない。<br />
　何も映っていないブラウン管や液晶のモニターで突然本編の放映が始まることがあれば、ノートパソコンのデスクトップに見知らぬフォルダがあり、そのアイコンやそのフォルダに含まれるファイルまで含めて丸ごと幻影で、そこに現実のマウスポインタを合わせてダブルクリックをすると幻影のウィンドウが開き、さらに何回かクリックを繰り返すと幻影の映像ファイルなり幻影のテキストなりが開かれる。<br />
　その原稿自体がそもそも自分の睫毛が生み出した幻影だと疑ってみたが、そのルーズリーフの束をどのように持ち替えて角度を変えて眺めてみてもそれは当たり前に存在し得る英文の翻訳原稿だった。筆記体の解読に難儀していたものの、翻訳は中盤まではつつがなく進んだ。<br />
　途中から空白の箇所に自分の幻影である文字が見え始めることに気がついた。初めの虫食いを埋める文字は”of”と言う単語をつつましやかに成していた。<br />
　何故そこで”of”という単語が選択されたのかは分からない。<br />
　原文は、<br />
　“So tired from the sleepless nights (of) the city.”<br />
　「街の眠られぬ夜に困憊して」<br />
　という文言なのだが、そこは”of”ではなく”on”でも”off”でも意味が通る。<br />
　それが“on”である場合は、訳意は変わらず、<br />
　「街での眠られぬ夜に困憊して」<br />
　になるし、<br />
　“off”である場合は、<br />
　「街から取り外された眠られぬ夜に困憊して」<br />
　と、あたしならそのように訳すだろう。<br />
　そこまで訳したところで自分が全き単語の幻影を訳したことに気付き、息を止めてページをめくってみるとそのような箇所が増えていくことに気付いたところで樫があたしの部屋を訪れ、あたしたちは夜歩きに出掛け、その始発に乗って散歩から帰り、熟睡し、目を覚まし、珈琲を飲みながら、今は「街の眠られぬ夜に困憊して」という昨晩までに辿り着いた訳文に末尾に手を加えようかどうかあたしが考えている証拠に画面上でカーソルが点滅しているところだ。</p>]]></description>
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         <pubDate>Mon, 07 Nov 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
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