*このインタビューは『歪曲』の収録が完了する以前、カリフォルニアはオークランドにあるShing02の自宅のスタジオにて2006年の4月と2007年の7月に2回に分けて行われたものです。
Shing02「歪曲」インタビュー
◎「ラヴ」と女性性について。
今回のアルバム『歪曲』は「ラヴソング・アルバム」ということですが、それは特定の女性に向けた「ラヴ」なんでしょうか、それとももっと普遍的な「ラヴ」についてなんでしょうか?
「それは真面目に答えると、曲を作ったり詞を書いたりってこと自体がひとつの比喩みたいなものであるから、たとえば女性に対するストーリーであってもその比喩を通してより大きな愛情について語る事もできる。日本語はフランス語みたいに男性名詞とか女性名詞とかないけれども、音楽だとか自然というのを女性に見立てて語るというのは昔から詩人がやって来たことだし、それは両方にあてはめられるものだと思ってます。すごく甘いラブソングでも音楽という女神に対して歌っているものかも知れないし、それは本当に自分の恋人に対するものかもしれないということですね」
そうやって自分の感情を音楽として作り込んでいくなかで、真吾君の中で女性性というのはどういう意味合いを持っているんでしょうか?
「それは対象が女性でなくても、どんな人間の中にもmasculine、男性的な面と、feminine、女性的な面があると思うんだけれども、より創造的なもの、より感情的なものっていうのは、本当に良い意味で女性的な面だと思うし、そういう部分を掘り下げていくっていうのはもっと自分の感情を探るということ、内省にも繋がる。そういう作業自体いまの時代の風潮の中ではみんな余りフォーカスしていない。まず第一に男性であれ女性であれ自分のそういう感情的な部分、つまり環境にどういう影響を受けて、自分はどういう感情を持っているんだろうということ自体をみんなもっと考えるべきだと思う。ただ経済的、肉体的にどういう影響があるかだけじゃなくて、その精神的な影響を考えて、なおかつそれを表現することを行うべきだと思う。それが第一で、もっと基本的なところに立ち返れば、やっぱりみんな女性から産まれてきたわけだから、自分の恋愛の対象だけじゃなくて自分の母親を大事にするとか本当に基本的なことを考える事に時間を割けば、自然とより他の人間なり他の命なりを大事にしていくと思うし、そういう価値観として女性を尊重するというのは今はすごく必要なことだと思いますね。だからバランスが悪いってことですよ。やはり男性的な部分ていうのが西洋のメディアでは激しくて、闘争本能とか購買意欲とか、そういう人間のアグレッシヴな部分ばかりが強調されて、弱肉強食の世界で勝ち負けさえはっきりしていれば人の感情はどうでもいいという、いわゆる結果主義なところばかり目立ってしまっているから。そういう意味でも人間のクリエイティヴィティていうのは、男であってもやはり物を産むわけだから、それぞれの母性本能というのを理解するのが大事ですね。それはあくまで半分のバランスだから、もちろん男性の部分も必要だし、ちゃんと男と女があって生理的なバランスが保てるというのがやっぱり大事だと思いますね」
相手のためなら何でも出来るし、幾らだって時間を割けるという恋愛の高揚感と、自分の中の女性性を増幅する創造行為とのあいだに共通点はあると思いますか?
「そうやって比べてみたら限りなく似ているとも言えるし、と同時にその恋愛のラッシュが終わったときにその人のことを愛し続けられるかって事のほうが長い目で見た時には大事なわけだから。ものを作るって時にアドレナリンが出てきて、どんどん進む時もあればなかなかやる気が出ないで、向かうのも面倒だったり辛かったりする時にも、それが好きでいられるかっていう。恋愛にしても山あり谷ありの関係の中でもどれだけ長続きできるか、長続きさせることが目的なのかっていうのは本当にその人次第だけれども。恋愛が醒めたら終わりだっていう人もいれば、覚めても違った関係を保てる人もいるし、みたいな。そういう意味では恋愛がどうっていう話ではないんだけれども、対象が人であれものであれカルチャーであれ、どれだけ自分が関わりを持ちたいかっていうのは、自分のハートが入ってなければやっぱり続かないよね。本当に好きじゃないと。好きで何かをするっていうパワーは何物にも勝るっていうのは、本当に何物にもあてはまるから」
その場その場での人間関係の中で立ち現れる態度としての愛というものと、自分の記憶の中にだけ存在する感傷的な愛というふたつがあるとして、そのどちらに重きを置いていると思いますか?
「それはその曲によるんじゃないですか。映画とかがいい例だと思うけど、何かを作ったからと言ってそれに登場するキャラクターや台詞が全て監督の実体験で、監督の第一人称から発しているかと言えばそうじゃないと思うし、そこが音楽の楽しさでもあるから一概にどうと決めることは難しいですね」
例えば『Luv Sic 3』の三番目のヴァースと『抱擁』は対照的なもののように感じられるのですが。
「前の質問に戻るけど、対象は人と見せかけて音楽そのものに対して語りかけているストーリーかも知れないし。だから、あの頃自分に訴えかけてきた音楽、自分はまたそこに戻れるのかみたいな、そういう意味なんだよ。だから『Luv Sic』に関してもある意味全部音楽に対して言っているようなものでもあるし。純粋なラヴ・ストーリーだけだったらそこまでやらないと思う。音楽が人のように感じることもあるし、人が音楽のように感じることもあるし。そういう音楽も希だし、そういう人も希だけれども、そういう出会いは曲を作るに値するんじゃない?」
◎リリックについて
今回のアルバムタイトルは『歪曲』な訳なんですけども、それと比べて歌詞の内容とか楽曲の構成とかタイトルから受ける印象の割には一本気というか、ストレートなものとして感じられるんです。だからこそそれが今の歪曲された世界に対して一言物言うものとして有効なものだと思うんですけど、その楽曲の世界観ていうのは主にもともと真吾君が持っていたものなんですか? それとも色んなミュージシャンとセッションしていく上で少しずつ作り上げられたものなんですか?
「それはもちろん両方ですけど。前から幾らイメージを持っていても実際に具体的に形にしていって初めて色んなものが見えてくるわけだから、場合によってはすごく作り込んで複雑にした方がいいと思う場合もあるし、場合によってはストレートにした方がいいと思う場合もあるし、全ては匙加減ですね。タイトルと曲の関係っていうのはまさに君が言った通り、『歪曲』っていうのは社会の中での、さらに自分の曲がってしまった部分ていう意味でもあるけれども、出したい物はやはりすごくストレートなものかもしれないし。よっぽど強いストレートなものじゃないと、その曲がっている部分を貫通出来ないと思うから」
そういった中で自分の書いた詩に影響されるということはありますか?
「影響されるというか、最近は詩を書く事は難しいなと思うし、特にこのアルバムはどうしても今までと同じようなスタイルでやりたいと思わない。新しい手法というか、新しいイメージを言葉だけで模索しようとするのはすごく難しい。ほんとうに新しい文法を探しているっていうか。今までの曲に似たような文法で似たような内容だったら幾らでも書けるけど、なんかもっとあるんじゃないかっていうのを感じるので、色々試行錯誤してますね」
日本語でラップする事を前提にしないで詩を書くことっていうのはありますか?
「ああ、それはないですね、やっぱり。英語でもポエトリーがあって、ポエトリーリーディングがあって、スポークンワードがあって、それでラップというのがあるわけじゃない。英語でも本当にいいと思う詩っていうのはあるけど…。その中間にあるものっていうのはあまりしっくり来ないっていうか、半分は照れくさいっていうか…。やっぱりビートに乗って勢いを持たせるからこそ説得力を持たせることができると思うし。それで言葉を作って、文法を作っていって工夫が出来るのが楽しい。 やはり『詩』っていうのは『字』だから。『字』っていうのはただの符号だとか記号じゃないですか。ある意味、譜面。音というのは字がなくても存在しうる命であって、それをまた曲に乗せてっていう、そういう作業がやはり生々しくて好きなので。そう、そこが難しい。字で書いてるうちは本当にある意味つまんないんですよ、はっきり言って。面倒くさいし、苦しいし、マンネリ化して、その字を見てるだけでは新鮮さを感じないんですよ。最後の最後で無駄な物がなくなって、ぐっと音としての面白みが出てきて、ようやく、やっていて楽しくなるわけです。それまでは本当にただの字の羅列。だから何かしらの工夫をして、全体的に字がどこに集まっていくのかっていうノリがないと本当に面白みがないんですよ。音としての字の集合体にまで昇華されると、字の呪縛から解かれてパワーアップする。躍動感が出るっていうか。ちょうど譜面にある音符を誰かが歌ったり吹いたりすることによって初めて意味をなすというか、音色になって耳に入ってきて音が見えるわけだよね。それと一緒で自分の書いた詩が立体的に見えるようになって初めて曲にフィットするし、曲の中での意味合いも出てくるし。それまではてんでばらばらで、全然駄目なんだよ」
実際に詩を書く手順は?
「それはパズルみたいなもので、言葉として、曲として、の全体のイメージっていうのがまずあって。それがパズルで言えば出来上がった絵なんだけど、目の前に無限のピースがあって、そこでたまたまピックした破片が、自分が作りたいパズルの一部かどうかっていうのがあるわけじゃない。そのピースが絶対にそのパズルの一部だっていうのが分かる時があるんですよ。これはこっちの曲にあてはまるな、これはこっちにあてはまるなって。 だけどそれが角のピースかも知れないし、真ん中のピースかも知れないし、それはとりあえず段々とはめていく感じ。ピースによっては出だしに効果的だなって思ったらそれぞれがヴァースの頭になっていったり、これはヴァースだったらダサいけど、フックだったら使えるなとか。その逆もあるし。そういうのを自分で厳選していくわけですよ。これは何々に使えそうだなっていうのを見て。こうやって曲とかも出来てくると、それぞれの曲の個性だとか、スタイルだとかいうものが段々できてくるわけじゃないですか。書いてるものによっては、ある一行だけ抜けてる部分もあれば、ひとつの単語だけ探している部分もあったりして。やっぱりそういうパズルがはまった時にはすごく嬉しいですよね。『ああ、これだ』って。だから本当に煮詰めて煮詰めていくと、『ここは本当に三文字でおさえたい』とかあるわけ。それで探して探して全然見つからなかったり、いや絶対にここはこれでしょうとか、動かせない部分が出てきちゃうわけですよね。でもやっぱり最終的には何か見つかるんだよね。『ああそうか』みたいな。そうやって自分の中で時間をかけて煮詰めていくと、自ずと、整理できてくるわけですよ。ゴミはゴミってもうばっさりと捨てちゃって、いいものだけ残して、そのピースをふるいにかけてくわけですよね」
『歪曲新来』以降、ヒップホップのリリックとして上手いな、と感じるところよりも、大まかに文学的とくくってしまいますけど、文章として上手いなと感じる部分が増えてきたように感じるんですよ。そういうところはやはり意識してます?
「すごく意識してると思う」
それを書き文字のメディアで発表したいとは思う?
「それはない。それこそ自分が書いた歌詞がインターネットで読めて、それをコピーしたり貼り付けたりして紹介したいと思う人がいれば、それくらいでちょうどいいと思ってます。それで曲の中のリリックとしても、そういう比喩なり、歌詞とか、韻とか含めて、僕一個人リスナーとして、ラップというものはさ、日本の中でも20年とか経って、いろんな子がラップしている中でも僕はやっぱり違うことしたいし、10年前やってたスタイルとは違うことをしたい。 僕が今やりたいのは日本語の文学チックなものをラップの中に込めて、逆に小難しかったり、読みにくかったり、難解だったりする部分はあるかもしれないけど、逆にそれが面白いってところまで煮詰めればそれはそれでいいと思ってるのね。だから曲としても聴いて何言ってるか分からない、でもそれでも悪いとは思わないんですよ。あとで、『ああ、そうなんだ』って思えれば。音的によく聞こえるかどうかっていうのが一番大事な問題だから。歌詞で何を言ってるかよりも。でも歌詞を書く段階で煮詰めておけば、備えあれば憂いなし、みたいなことで、万が一歌詞だけ裸にされても全然恥ずかしくない。(手で波を作りながら)それでほんとにねこんな感じなのよ、避けて避けて避けてみたいな。出来るだけ(他の人と)被らないように、ぶつからないように。するするするっと、行くのが一番僕的ですね」
フロウが?
「全てにおいて。歌詞においてもビートにおいてもフロウにおいても。アルバムの曲に関してもそうだし、人からもらった曲に関してもそうなんだけど、それはあくまでも曲調に合わせて書いてるものだから。そこらへんはやっぱり無理なくやりたいんですよね。自分が思っているよりもずっとシンプルなフレーズが合うんだったら、それはそれでいじらないし。自分が思ってるよりも分かりにくいフレーズがあったとしても曲にフィットしてれば使う、みたいな。だから常に自分は試合で言えば監督みたいな役目なんですよ。指揮者といえば指揮者だし、全員に完璧を求めているわけではなくて、全体的にそのメンバーで最大限のプラスアルファを引き出すかがディレクターの仕事だと思うから。それは本当に色んな意味でね、ビートを作ってる時でもそう」
◎2006年4月現在ネットで公開されている新曲について
『泳遠』
いまネットで公開されている新曲について伺いたいんですけど、『泳遠』という曲は「遠泳」という言葉を逆にしたタイトルですけど、それに関して、「時には自分の足のつかない海の深いところを泳いでいかなければならない」といった内容の事を以前のライヴの曲間のMCで真吾君が言っていたのを覚えているんです。この曲自体、様々な既成の概念や価値観から自分の精神を自由にして、身一つでどこに何があるのか分からないまま泳ぎ続けていかなければならないという事について歌っている曲ですよね。そういった独立した精神を実現する上での、絶対的な孤独を強く感じるのですが、そういった意図はありましたか?
「もちろんありますよ。でも精神力の強い人っていうのはその孤独のなかに平和や静けさというものを見つけて、それを楽しめる強さを持っている人だと思うし、それぐらいまでにいかないと本当にいい仕事っていうのは出来ないと思う。まず自分と向き合って、その孤独のなかで集中力を高めるっていう作業ができないと。いつも人と作業することばかり求めていたらいけないと思いますし、この「泳遠」という比喩自体、単に沖に向かって泳いでいけばいいって言ってるわけじゃなくて、イメージとしてはその沖にある島や何かに向かって泳いでるわけだよね。それでその波に切り込んで自分の手と足で泳いでいかなければいけないわけじゃないですか。それで、もちろんすぐ自分の足もつかなくなるし。自分がそこで泳ぐのを止めた途端に、もちろん目的にも着かなくなれば、下手したら溺れるかもしれないし、よっぽど深いところだったら何かに食われるかもしれないし。だけどそれでも自分のそのペースさえ乱さずに進んでいけば、自分では無理だと思っていた距離もいつの間にか進んでいたりする。そういうのが出来る人はいとも簡単にやっちゃうし、それこそ既成の概念が少なければ少ないほど、いわゆる子供に近ければ近いほど、そんなのはどうってことなくぱっとやっちゃうと思うんですよね。だけど大人になっていけばなっていくほど、色々な疑念、ダウトが生まれてきて」
自分に対する?
「そう。そういうことはしにくくなると思うんだよね。だから最終的にはひとりで行け、っていう事だと思うんですよね。誰のこと待っててもほんとに何も始まらないし、むしろ大勢の人を待っていたら余計進まないし、結局はひとりでどこまで遠くまで行って帰って来られるかってことが全てのきっかけになると思うから」
『泳遠』の中で「この身はただの仮住まい、ならば心も滅ぶまい」というラインがありますけど、これは真吾君の輪廻観を反映したもの?
「輪廻観かと言われればそうだけど、この曲のコンテキストで言えば、海なんてものに比べたら人間の一生なんて本当に一瞬ですよね。自分の中ではすごく長い時間だけども、いつかは体は消えてなくなるものじゃないですか。でもその反面、自分の精神ていうのはどこまでも残っていくものだと思うんですよ。生命エネルギーとしてでもいいし、決して完全に消えるものだとは思わないです。それは自然の摂理だと思いますけど。それは何か別のものになって、別の命の一部になるかも知れないけれども、それが無になるということはない。体だって腐って地球に戻っていけば無になる訳じゃない。僕も今になってみればこういう事をさらっと言って、特に深い事を言ってるつもりもないし、特に深く考えて言ってるわけじゃないんですけど、僕が普通に二十歳の頃とか、そういうのを聞いて新鮮だったというか、びっくりしたのは覚えてますね。普通に音楽やってる人とかと話して、「人間なんていうのはただの殻だから精神の方が何倍も大事だ」とか言われた時は『このひとは何を言ってるんだろう』って思ったし。特に日本だと、普通に義務教育受けて大人になると、自分の外見イコール自分ていう執着がすごくあるじゃない。自分の持ち物とかどこに住んでるとかそういうのは置いておいたとしても、自分の顔とか凄く気にするじゃないですか。だから『自分の体っていうのはただの乗り物であって』っていうのは異質なものに聞こえたんですけど。そのあとにいろいろ吸収していくうちに、昔読んだり聞いたりした話がだんだんシンクロしてきて、ああそうだなあって思うようになりましたね」
『殴雨』
『殴雨』はちょっと懐かしい感じする日本的なメロディですが、このメロディはバイオリンの竹島愛弓さんが作ったんですか?
「メロディを作ったのは僕で、愛弓さんにループで弾いてもらったんですよ。でも曲は最初から最後までちゃんと弾いてますね 」
あのメロディの着想は?
「ビートがあって、このアープのオデッセイで弾いてて、オリエンタルなメロディでいいなと思って残しておいたんですよ。このアルバムでは、セッションを切ったり貼ったりしてるだけじゃなくて、ちょっとは作曲もしてるわけだからメロディとかも考えてやってみようかなと思って」
この曲を書いた心境っていうのは?
「まず始めに言いたいのは、インタビューの冒頭で言ってる通り男性的なものと女性的なものがあって、それこそ『400』とかはアルバムカバーにもあるとおりすごく男性的なものなわけじゃないですか。でも『歪曲』は女性的なものをテーマに扱ってるものだから、別に考え方が変わったとかじゃなくて、そのテーマに沿ったものが出てきたものが出てきたという結果だから、トラックを作る過程でもヴァイオリンが入って、じわ〜って出てきた イメージがあったから、それですごく助けられて完成したという感じですね。ヴァイオリンを録った時は歌詞も全然出来てなかったから、そこはやはり愛弓さんのおかげですね」
真吾君的に気に入ってるのは二番目のヴァースだったりします?
「そうですね。『勝ち負けで決まる価値、過ちで溢れる泡の街、 新聞を開けば、嘘ばかり テレビをつけたら、空騒ぎ』って言ってますけど、それが実際にどうだって言ってるんじゃなくて、『そんな風に感じる時は』って話なんですよ」
そんな風に都会で暮らしていく中で、同じヴァースの終わりで歌っている通り『ひとりで天国に打ち明ける、祈りのロケットを打ち上げる』みたいに、辛い時に自分が呟きを投げかける理想郷の鋳型みたいのはどんなリアリストの中にも存在してるわけですよね。それは真吾君にとってはどんなイメージなんですか?
「子供から大人になるにあたって、普通に社会の一員になるにあたって、いろいろ理想じゃない部分ていうのが見えてくるわけじゃないですか。 そういうのを大人になるまで、大人が子供に教えないというのもすごく問題だと思うんですけど。準備が出来てないわけじゃないですか。だから、ちゃんと良いところと悪いところを両方教えてくれないと。ただ単に社会でサヴァイヴしてメイクマネーするにはこれをしなさいっていうんじゃなくて、メイクマネーをする過程でこんな敵が出てくるからそれはこうやって戦うんだよっていうのをちゃんと教えないと。大抵の人はさ、そこで深く考えないようにしてやっていくのが常識なんだけれども、そういう社会の汚い部分でいちいちびっくりする人は、それで落ちてっちゃう事もあるじゃない。 もっと引いて考えたら、 自分の社会が成り立っていること自体、他の社会を食い荒らしているし、そのことに傷ついちゃう人もいる訳じゃない。そんなこと始めは分かんないわけじゃないですか。実際に自分が大人になってみて、もちろん素晴らしいことも沢山あるんだけども、全てが全て上手く行っているかっていったら、仮に自分が潤っていても、他に苦しんでる人は幾らでもいるわけだから。それでやっぱ心を痛めるかもしれないし、もちろん心を痛めない人の方が過半数だけど、それ自体おかしいって思うこともあるじゃない。そういう事を言ってるわけですよ。まだまだそういう疑問とか感情とかが浮かんで来て、この感情をどこにぶつければいいのっていうの状態になるという、そういうところを歌ってるんです。誰もが全ての理想が満たされているってことはまずないし、みんなが善人なんて事もあり得ない。それを踏まえた上で、もっと根本的な楽しみだとか喜びがあるってことを言ってるわけであって。あらゆる欲を満たそうとしていたら逆にお互いを苦しめ合うだけであって、欲自体から解放された喜びみたいのがもっとあると思うんですよね」
変な質問ですけど、あらゆる利己的な欲から解放された状態っていうのは想像できます?
「一番心配ごとがゼロに近い状態じゃないですか。欲を満たそうとしているうちは心配しているわけじゃない。「心を配る」じゃないけど。これはどうなんだろう、これはいつ手に入るんだろう、これはいつ満たされるんだろうとかさ。そういう色んな心配ごとがない状態っていうのはやっぱりすごく気持ちいいと思うんだよね。全部手に入ったから、もう心配しなくていい、っていうんじゃなくて。執着心をなくせばなくすほど、コアな部分が強くなると思うし」
けれども愛情というのも執着の一つですよね。
「もちろんそうですよ。人にも物にも記憶にも、色んな物に執着して生きていると思うし、その執着している自分イコール自分っていうのがやっぱあると思うんだよね。でもそういうのが一切なくなっても自分は自分でいられるかっていうのがやっぱ人の究極のテストだと思うんですよ」
『抱擁』
この曲は『誰も知らない』とは別の意味で真吾君個人の感情をダイレクトに詩にしてると思うんです。1998年に発表された『誰も知らない』は歌詞に現れるShing02というキャラクターと安念真吾という個人のギャップを「誰も知らない、知られちゃいけない」と言うことによってMCの閉ざされてはいるけれども深い世界観を敢えて口にしているように感じられるんですけれども、『抱擁』に関してはMCとして精度の高いフロウで真吾君の内に秘めた普遍的な優しさだとか愛情だとかをストレートに歌っているという点で物凄いブレークスルーがあると思うんです。それでこの曲は『僕』と存在が『あなた』という存在に対して抱く細やかな愛情の様々な局面を歌っていますが、それは実際に真吾君が『あなた』という対象を得たことに依っているんでしょうか?
「いや、そんなことはないと思うよ。実際このトラックはギターの深思って奴とすごく二人の愛情と時間を込めてほんと丸々一ヶ月くらい毎日セッションするくらいの気持ちで作ったものだったから。準備とか含めたら二、三ヶ月かけたトラックがあって生まれた世界観だから。もちろん詩は独自のものですけど、つまり『僕』という人は『あなた』という人にまだ会ってないかもしれないし、会って友達なのかも知れないし、出会って別れちゃったかもしれない。それは関係ないんだよ。だけどそれでも『あなた』を抱擁したいという気持ち、それを歌っている。実際にそれが妄想であるか思い出であるか現実であるかっていうのは特定されてないんですよ、曲の中では」
なるほど。
「『殴雨』の愛弓さんのヴァイオリンもそうだし、『抱擁』の深思君のギターもそうだし、やはりそこの過程がなければ絶対に出来なかった曲だから、それなりに時間をかけてその場で考えて一緒に録ってっていうのがあって…。でもそれが余りにも楽しい。『抱擁』作った時も編集だけで丸々一ヶ月かかって、出来た時はほんとに嬉しかった。今回の『歪曲』のアルバムも実感としては出来てないというより、何回も作り直しているのに近いんですよね。ある意味もう出来てるし、ある意味もう何回も何回も練り直してる。自分の中では物自体はもう出来てるに近い。だからもう出来てるんだったら、仮にいまそれが発売されていて、みんなが聞き続けて、自分も何年もかけて聞くのと、自分が作っている過程を練りながら自分の中でまた新しく生まれ変わっていって、物理的にトラックが出来て出すというのとそこまで違いはないと思ってるんですよ。長い目で見れば。だから純粋に自分の中で、本当に人に聞かせたいから作ってるってところまで持って行きたい、全曲。ただ終わらせるために作ってるって言うんじゃなくて。ああこれは本当に人に聞いて欲しいわ、ってところまで持っていきたいから、一曲一曲出して次はこういう事やろうっていうチャレンジが生まれてくるわけじゃない。そういった中で、さっきも言ってたもっと新しいことしなきゃっていうのが色々出てくるし、一気に全部作っちゃったらある程度スクランブルして、無理矢理やっちゃうと思うんだけど。今までの過程でそういうエピソードがたくさんあって、事の成り行きには満足してます」
そういったエピソードが沢山生まれる程に、今回は本当に色んなミュージシャンと作業してますよね。
「そうですね」
そこに繋がると思うんですけど、『抱擁』の三番目のヴァースで「音量の目盛りを上げて埋め立てた記憶を梱包中、空き地で楽器を鳴らして活気を取り戻すことに奔走中」という歌詞がありますけど、もちろんこれは真吾君の心象風景ではあるけれども、実際に様々な形態で表現を行ってる人が誰からも無視された寂れた「空き地」でそれぞれの楽器を鳴らして活気を取り「戻そう」としている現実があるとも言えますよね。その「空き地」っていうのはもともと人間の精神で賑やかだった場所なのか、それとも未だ誰も足を踏み入れたことのない未開の荒野なのか、どっちだと思います?
「『音量の目盛り』は記憶である『メモリ』でもあって、『音量のメモリを上げて埋め立てた記憶を梱包中』っていうと記憶自体も既に埋め立て地なわけ。だけど記憶が埋め立て地だったら、自分は本物の空き地というか、本物の空いてるスペースの中で更に、記憶自体が埋め立てられたセグメントだったら自分はその空いてるスペースに楽器を持っていって活気を作りたい。また新しいところを一からやろうとしている訳ですよ。過去のものはデフラグして、整理して。だからその空き地自体は過去に何であったかというよりは、本当に真っさら、空き地の記憶自体も真っさら、そこに添付されてるファイルはないんです。だから自分としては、記憶からも、もう離れたい。何でか、というと記憶の埋め立て地だとやはり寂しくなっちゃうから、自分が活気を取り戻すには自分はその空き地にいくしかない。僕らはさビートを聴いてる時ってもっと音量を上げたくなる時ってあるわけじゃん、本当にその音を聴きたくて。毎回、毎回、記憶の埋め立て地にばっかり行ってもつまらない」
この曲は現代の義太夫と言えるくらい完成度の高いものだと思うのですが、以前のどこかのインタビューで『Tags of Times』に収録されている『Confessions of Three Men』は真吾君がヒップホップに対して恩返しが出来たと思える曲だと言ってましたが、それを超える達成感ていうのはあります?
「いやもちろんさすがに去年(2005年)のうちに終わらせて、去年のうちに一応ネットで発表できたというのはすごく達成感があったけれども、その曲としてっていうのはアルバム自体が作り途中だから、アルバムの中で面白いものができたからまたチャレンジの対象ができて、もっとやんなきゃっていうのはあるけど。二月にちょこっとライヴでやった時も楽しかったし、これでちゃんとライヴバンドで『抱擁』を出来るようになったらいいなとは思ってますけど。それがやっぱ一つの目標ですね。このアルバムをちゃんと作って、それをライヴとかでも歌えるいい曲になったら嬉しいですけど。新しいものを作る上でそれが一番のチャレンジだと思うし。昔の曲が好きな人がいても、それをずっとやっても喜ばれるものでもないと思うから、それはずっとチャレンジであると思うんだよね、ミュージシャンとしては。新しいものも古いものと同じくらい良いと言って貰わないとね」
◎自己充足的な予言
以前お話した時に、ミュージシャンは実際の問題に行動をもって取り組んでる人たちの裏方みたいなものだ、って内容のことを言ってましたが…。
「ほんと最近社会的なことで考えてることはあるんだけど、やっぱ実際ポリティカルなことを歌ってなくても、ラヴソングでもいいんだけど、音楽に社会的な意味合いを持たせるって事自体、解釈を限定しているわけじゃない?そういう機能性を求めることによって。作り手も受け手も、多くの人は音楽を作ったり楽しんだりするときは、自分の問題とか社会的な問題は考えたくありません、って問題が存在してもしてなくても、考えたくありません、っていうのが殆どだと思うし、そういうところにわざわざ社会の問題だとか環境の問題だとかを持ってくるのは難儀なことだと思うんですよ」
でもその難儀なことが原動力になるケースもありますよね。
「そういう社会的な感情だとか運動に音楽だとかアートだとかが重なると本当によりパワフルなことになるし、ムーヴメントになると思う。 それは本当に歴史上で何度も証明されてきていることだから。それが文学であろうが何でもいいんだけど、人のアイディアの力、そのアイディアというものが生き続けて、それが色んな物を変える原動力になるっていうのは、最も人間が大切にしてる美学じゃないですか。本当に人間としての。そういう作品も数多くあるわけだけれども、映画だってそう。僕個人としてはそういうものが好きだし、大事なことだと思う。そこはやはりタイミングであって、もちろん世の中はすっごく沢山問題があるけれども、その問題を忘れて騒ごう!と言って同調を得られる場合もあれば、こういう問題があるからそこを変えようって言って同調を得られる場合もあるし、そこは扇動する者のスキルというか、その人の器でもあるし、その人次第だと思うんだよね。で、僕はどっちも賛成、 音楽は下らない争いから離れたところで純粋に音楽として存在して、何の値札もレッテルも貼らずに、ああいいなって思えれば十分だって思える部分もあるし、この音楽とメッセージを武器に群衆が槍を作って、それを権力に向かって投げるみたいな、武器にもなるわけだよ、薬にもなるし。それが出来るってことをみんなが知らないと、ほんとにもったいないと思う」
世界と自分とのインターフェースじゃないですけど、自分の思想だとか言いたいことを一番格好良く見せられるフォーマットがあるわけじゃないですか。真吾君だったら詩を書いてトラックを作ってラップをしてライヴをするという。そういう活動がある上で、さらに、ある程度の事を自分に課して、生活の中で実践しなければメッセージが薄まってしまうって真吾君は言っていたけど、それは自分をその方向へ鍛えていきたいからそうするのか、それともある意味では手本を示したいからそうするのか…。
「時間をかけてなるようにしかならない。英語にself-fulfilling prophecyっていう言葉があるんだけど。日本語で言えば、自己充足的な予言。本当にヒップホップという文化自体そうであるように、自分がギャングスタだって歌っている人は、実際にリアルだろうがフェイクだろうが結局そういうギャングの世界に巻き込まれていくし、自分は革命家だって言っていればそういう世界に関わらざるを得なくなるわけじゃない、そう言っていれば。名は体を表すっていうかさ。自分は人々の感情のどの部分を引き出したいかっていうのはその人次第じゃない。自分はみんなを踊らせて、パーティーさせたいからパーティーのアーティストになってそれでみんなに知られたいって人もいるかもしれないし、いや俺は社会のこういう偽善が許せないし、苦しんでる人たちを助けたいって人は、そういう部分を引き出すのが得意だからやるんだろうし。それぞれの受け持ちの分野っていうのがあると思うんだよね。だからどっちが偉いとかじゃなくて、やりたい事があるんだったら人を気にしてる場合じゃないと思う」
◎作品の環境的負荷
最近、作品の流通などに関して哲学的な考えを持ってるって言ってましたけど、具体的に教えて下さい。
「例えば小説を出すに当たって自主的に本にするのか、それとも文学の世界で言えば文壇を経由して世に発表するかっていう話でしょ。それは音楽でも何でもそうだと思うけど、大衆の人が認めている組織とか団体、つまりメディアが「良い」と言って、そういう中で認められるというのはもちろん価値がある事だと思うし、正当な評価を得て、世に出て行くべき人が出て行くのは当然のことだと思う。仮にそこまで良くないものを紹介していたとしても、メディアは必要だからある。だけど僕は個人的にヒップホップというものの魅力としてもそうだし、世にものを出す過程とか、何をやるかっていうモチベーションにしても人と同じ事をしていたら、意味なくはないけど、自分にとってはつまらない、結果が予測できちゃうから。既存のシステムがあってそれを否定するがために己の道を行くのではなく、己の道を造りたいがために己の道を造るべきだと思うんですよ。 Establishment(権威)に対するanti-system(アンチ・システム)だからそうするのか、例えば広告が嫌いだからその上にグラフィティを塗るとかそういうんじゃない。自分のステートメントを出したいから自分のタグを書くわけじゃん。音楽もそうあるべきだと思う。人に認知されることが目的なのはすごく純粋なことだと思う。だけれども人に認知されている組織に認知されることが目的なのはすごい不純だと思う。別にそこにじゃなくたっていいじゃん。名声とか、多くの人たち、広範囲の人たちに認めて欲しいっていうのは分かりやすい。だけど、それを求めていたらクリエイターとしたら列に並ぶようなもんじゃない。だから内容はおいておいて、考え方として自分で別の道を造ってでも認められるくらいの心意気がないといけないと思う。それで、そこから始めたとしてもまず内容が良くないと駄目だし、継続して説得力を持たせないといけない。一発やっただけじゃ、もっと意味がないから。そういう事はみんな考えてることかもしれないけど、ここ一年単位で劇的にシフトしていってるよね。物が消費されていく過程だとか」
YouTube然りですね。
「そう、そうなんだけど、僕は今のところネット社会に対して反動も感じてて、アルバムだったら、手にとって聴くのはすごく大事だなって思う、CDでも、アナログでも。例えばこのファラオ・モンチのアルバムを買って、CD買ったのは久しぶりだったけど、すごく嬉しかった。買ったアルバムの一曲目が車で流れる興奮を久しぶりに味わった。唯一ひっかかるのは、面倒な話なんだけども、最近は環境の話になって、このCDの環境的負荷は何かって話になるでしょ」
効率で言えばデータのほうがいいですよね。
「それが果たして良いのかって話にもなるでしょ。実際にコンピューターだとかiPodだとかは、より多くのマイクロチップだとか、より多くの機械の部品が作られていくわけじゃない。まだこれ(CDアルバム)の方が化学物質をそんなにつかってないし。だからどちらが良いとは言えないと思う。しかも仮に経済的なコストプラス環境負荷があっても、そのものに込められたメッセージだとか、そのメッセージによって人が受けるインスピレーションっていうのは、絶対に計れない。このCDがひどいクオリティの音楽だろうが、涙を流すほど良い音楽だろうが、環境に及ぼす負荷と経済的なコストは全く一緒なわけですよ。だけど内容の価値は誰が決めるんだっていったら、難しいでしょ?」
下の世代になるとこういうCDよりもデータの方が近しい存在だって事もあるかも知れないし。
「物を流通させる店が洒落抜きで危なくなって来てるでしょ、今。これだけMP3とかiPodとかポピュラーになってきても、クオリティの面では大いに問題あるじゃない、音質だとかDRMだとか。だったら始めからハイクオリティーのMP3でDRMフリーで出せば良いじゃんって話になるよね。やってないだけで。市販のCDはDRMがついてないんだし、何でコンピューターに移すワンステップの差だけなのに、オンラインはDRMをつけるんですかっていう話」
今のところそれはオンラインで物を流通させるための口実でもあると思いますが。
「でも微妙なところではあるよね。もうすぐそういうことが解決されると思う、あと何年かしたら」
特にクラブミュージックだったらDRMなしで配信してるサイトは増えてますよね。
「それも当然だと思うよ。でも何が言いたいかというと、個人的には面白いことがしたいし、面白くないとつまらない。面白くないイコールつまんない、でしょ。つまんないんだったらやる価値がないと思うんだよね。ほんとに。だから自分は本当に面白いことをやり続けたいわけであって、誰かに良いと言われるためとかじゃなくて。ビートを作り始めた頃なんていうのはビートを作るのが面白くてしょうがないから作ってるわけで、ラップを作ったり曲を書いたりするのもそれが楽しくてしょうがないからやるわけだよね。今自分が作ってるものに対しても、同じ衝動かそれ以上のものを求めているし、それを期待しているわけですよ」
今の自分の活動を俯瞰してみた時に、初期衝動と比べてどう自己評価できますか?
「俯瞰した時っていうのは、全体的に見て興味深いというか、面白いものが出来てれば良いんじゃないって感じなんだよね。逆に細かいところを煮詰め過ぎた結果つまんなくなってたら更に意味ないじゃん。物を作るというか、アイデアを出すというのは面白いことだし、必要な事でもあると思う、人間として。自分の美的感覚にアピールするもの、五感全てね、目で見て綺麗なもの、聴いて楽しいもの、食べて美味しいものっていうのは決して悪いことじゃないでしょ。それが目的になるのもどうかと思うけど。ほんとう常にバランスであって。だからネットっていうのはインスタントだから、物を投げて反応が返ってきて、それで満足しちゃう部分もあるわけですよ。だけどさっきの話に戻ると、それをやりつつも僕的には人が「もの」を手にとって楽しんでもらう部分も残しておきたいわけ」
ペイオフできるでしょっていう。
「そう。あまり考えたくないって言ったら偽善になっちゃうんだけど、 そこは勘弁してくださいって思いたい部分。その分、無駄なモン作ってないから許してよ、みたいな。そんなこと言ったらさ、音楽を作る人たちだけ、急に今はデジタルコンテンツになるから、CD作ったら環境に迷惑かかるっていうけど、そんなこと言ったら、みんな車作ってる人は車作ってるし、こういうコンピューター作ってる人はコンピューター作ってるし、服つくってる人は服つくってるわけじゃない。じゃあ、いきなり音楽作ってる人だけCDつくったらゴミになるからやめろって言われるのはさ、なんかおかしいよね。『わたしたちだって物をつくる喜びを味わいたいです』っていうのがあるじゃん、やっぱり」
音楽だったら、最終的にスピーカーから出てしまえば元がCDだろうがMP3だろうがみんな余り気にしないってところもあるし。ずるいですよね。
「そう、今の自分には葛藤を曲にぶつける事しかできない。それがいろいろ考えたり寝かしたりして、辿りついた一時的な結論ですね。 2006年は、ほぼ一年かけてエネルギー問題を勉強して、発表して、すごくいい経験になった。だけどさっきも言った反動みたいなものでね、何事も環境的負荷でジャッジしていたら何も出来なくなってしまう。だからと言ってそれに目をつむって好きなことをやれば良いわけじゃなくても、やっぱり選んで作った物には、誇りを持ちたいよね。 罪悪感持ちながらやるんじゃなくて。それを、ものを作る人ははっきりと言うべきだと思うんだ」
でもそれは…
「でもそこで揚げ足を取る意見ていうのは、常に一理はあるわけよ、絶対にね。 結局、今はね、ネットのおかげで色んなドキュメンタリーを見て現状が知れたり、指先で感じることが出来て、環境問題にしても、大衆に呼びかけて生活を改善しましょうっていうのも良いんだけど、一番汚染に荷担している産業とか、元栓を締めれば良いだけなのに、末端のところで節約してくださいっていうのもどうかと思うよね。それはすごく大事なことなんだよ。でもこっち(消費者)が何もしてないのに、人にネガティヴなメッセージばかりを伝えるというのも考え物だと思うんですよ。そういう図式があって、色んなところで同じ印象を受けるのね。環境問題にしても、アフリカの問題にしてもそう。人を助けようっていう前に、じゃあ銃を造ってディストリビュートしてる人の方がもっと悪いじゃん、って思う」
それを許してる法律ってところまで遡れますよね。
「そうそう、それを許してる「風潮」、それを許してる「システム」。そこに意図を見いだすか見いださないかは別として、何で戦争が続いてるのか、資源の利権とか、理由は絶対にある。でもそういうところでつまずいていても、しょうがない。それが自分にとって大事だと思って、その問題を究明するためにそれを仕事にしたい人がいれば、それをすれば良いということかな」
陰謀論を語り始めたらきりがないけど、どこまでが正常な歴史認識で、どこからが現代社会のストレスから来るパラノイアかを見極める客観的な視点は必要ですよね。
「そう思う。すごくポジティヴなメッセージでも悲観的な要素は含まれてることは多いから。最終的には、その一個人にとって何が大事かっていう、判断をしないとね。右からも左からも来るそういう問題提起を受け止めてたら本当に自分が持たないよね。本当に大げさな話じゃなくて、自分が壊れちゃうよね。そういうことばかり見てて、朝から晩までそういうニュースばかり吸収してたら。どの図式の中に自分を当てはめるかっていう判断は重要だと思うんですよ。だからすごく難しい問題であるが故に、自分の生きてる社会の中での自分の生活に直接関係ない、もっと外側にあるものは関係ありませんていうのも立派なスタンスだと思う。本当に。ほんと色んなサイクルがあると思う。フェアなサイクルと、アンフェアなサイクルが。平等と不平等。先代の人がこれだけ悪いことをしてきたから、これをぱたって止めますって言ってそれを無理矢理新しい価値観を押しつけるのも、昔の人の罪悪感を若い人になすりつけるのもどうかと思うんだよね。そんなの自分が止めればいいじゃん、自分が行動で見せろって話だよ、言葉じゃなくて。叱るんじゃなくて。自分が起こした問題だったら、自分が直せばいいじゃん。ね、それと一緒で、経済的な話ですけど、先進国と途上国の関係も一緒。先進国が汚したからって途上国に行って法律を変えようとしたり。自分がまず変えて、自分が直せばいいじゃん、他のひとを巻き込む前に。元はと言えば世界中から集めて来て燃やした資源なんだからさ。ひどくない? 」
そう思いますよ。
「そういうところで本当に偽善が、大義名分がまかり通ってるから、ひどいと思う、そんなの。やっぱ好きなようにする権利はあると思うよ。だからその罪悪感から来るエネルギーは僕にとっては本当にネガティヴだと思う。自分で解決してないのに、人に伝えることによってその罪悪感を和らげようとしているみたいな。ある意味、悪質な勧誘みたいな感じ」
しかも本人にその意識はないという。その人は心を痛めてるだけだから。
「そう、だから結局すごく西洋的な発想なんですよ、そこは。『わたしたちはこんなに悪いことをしました、だから一緒に救いを求めましょう』みたいな。それが今の環境運動とか人権運動に見てとれて。お前らがやった事だろみたいな(笑)。そんな単純なことじゃないでしょ。原因がある以上。表面的には人が苦しんでる、じゃあ助けよう、それで合ってると思う。だけどその原因の部分が一緒じゃん、環境が悪くなっている、じゃあ直しましょう、とか。そういう世界の中で一個人に戻って、何を作って、どうやってものを出してっていうことじゃないですか。もちろんお金も稼がないと生きていけないし、そういうところで日々悩んでいるけど」
◎『歪曲』以降は?
アルバム制作の進行はどうですか?
「自分が聴いて、感動したい程のエネルギーを封じ込めたいから、そのエネルギーが沸々と、溜まるのを、静かに、待ってるって感じですね。全ては自分が描いたスクリプトを録音するっていう過程で封じ込めて、体現しなければいけない。フィジカルとメンタルの両方を仕上げていかなきゃいけないわけだよね。それは締め切りを言い訳にクオリティを妥協できない。やっぱ面白いくらい変わるじゃん、人間て。一週間、二週間、一ヶ月、二ヶ月で、考えてることが。でも時間は一方向にしか流れないから、一つの考え方が生まれる事によって、新しい方向性が見いだせたりする。全ては順番に来る訳だから。自分の中でのバイオリズムとしては、一つ一つの出来事が全部大事なの本当に。ちっちゃい仕事をこなすのも、大きい仕事をこなすのも、こつこつ何かをやるのもね。色んな物小出しにしたり、色んな物片付けていったり、昨日の夜のライヴもそうだし。アルバムに100%割いてたらね、やらなくてもいいようなことだけど。断れるような事でも大事だと思うからやるんですよ、友達にも会えたり、そうやって自分の中でページがめくれていく。会話があって、考え方が変わったり、、、って思いますね。凄いミュージシャンは人間として美しいと思うし、そこは純粋に感動するわけですよ。ほんとに格好良いなって思う、身近な人でも、ライヴやってる時って。生で見るっていうのは本当に美しい、その行為が。ヒップホップでもジャズでも関係なく、まるで演劇を見ているような感じ。ステージがあって、ステージの上の世界があって、お客さんがいて、そういう空間を凄い楽しめる」
よくヒップホップのMCだけ行為としての発話をしてるって事で”Do you feel me?”っていう風に偶像化されがちだけど、他のミュージシャンも身一つでレペゼンしてる事には変わりないですよね。
「変わらないよ。ほんとに武器を持って戦いに行ってるようなものだし、精神的にも武器を磨いて。それくらいの誇りを持ってやるべきだしね、どんな仕事でも。初期衝動の話に戻るけど、僕がヒップホップを好きになった理由っていうのは、自分が作ってから人に出すまでが本当に一直線だったから。全然他の事はどうでもいいみたいな。すごくシンプル。そういう行為もそうだし、考えたことを口に出して、それか詩に書いて歌う。シンプルが故に可能性は無限だし、何を言おうが自分の勝手。ビートをつくることにしても、どんな音を引っ張ってきても良いし、それが凄いって思った」
そういう何をしてもいいっていう状況の中で、今は情報が多いから、今の子は本当に自由に出来てるのかなとも思いますけど。
「ある種の病気ですよね。でも情報が多いって言っても、情報を多く摂取してるのは自分だからね。その選択の余地すらない環境もあると思うけど、その環境に住んでるのも自分でしょーみたいな。そういう職業に就いてるのも自分でしょ、みたいな。ただ一つ言えるのはさ、我々が三十代になって考えることは十年前に考えていることと違うのと一緒で、経験を重ねてそれをプラスにして行きたいわけじゃないですか、ハンディになるんじゃなくて。年食ったからその分疲れたとかそんな事は言ってられない訳ですよ。経験してきたからこそ、より賢く、より鋭く、より機敏になるべきだと思うし。そういうのってやっぱ分かるじゃない、どういう風に機能しているか、その人間を見たら。人の話で言えば、自分はこのベイエリアは共感できる人が多いし、魅力的な人が沢山いるからここに住んでて楽しいですね」
そうやってある程度年をとって自己表現をしながら、下の世代を教育してるっていう意識はありますか?
「真剣に音楽を作り始めて十年経ったと言っても、三十代前半はほんとに若いと思うよ。でも一人間としても今やってることを決して無駄にはしたくないから、 四十代になっても自分が面白いと思うこと、大事だと思うことをやり続けていたい、希望として。そこなんですよね、結局。人を喜ばせるために自分の仕事を妥協したり、薄めていくっていうのは、自殺行為だと思う、クリエイターとして。そんなことをするくらいだったら、他の仕事をした方が良いと思いますよ」
『歪曲』が終わったらやりたいと言ってたプロジェクトも頭の中に形はありますか?
「『Ghost Town』もそうだし、DJ A-1とやった2005年のプロジェクトも同じ『有事通信』ていうコンセプトで書き始めた曲もある。その辺は歪曲とは違ったもっとハードな事もやりたい思うけどね」
これまでの話を聞いて強く思ったのですが、『歪曲』は真吾君にとっては超えなければいけない壁なんですね。
「自分の中では制覇しなければいけない、登頂しなければいけない、高い山ですね。これだけ他のものを片付けて自分も成長しながらこのアルバムをちょっとずつ培養していきたかった最大の理由は、自分が作ってるものとしてわりかし普遍的なものを残したいから、自分の中でも既にできたものとして仮定して直していってるというか、改築したり増築したり。ビートも骨組みもずっと前から出来てるけど、その中で自分が本当に飽きないものを創れるかっていうのも一つの試練であって。僕の中でも昔創った曲で全く飽きないものがあって、そういうものをつくりたいわけだから」
楽しみにしてます。
「でもほんとに何かあると思うよ、今。一気に出てきて、何かあるよね。ここ5年で起きたこと、2002年から2007年まで。すごく考えざるを得ないことが多かった」
何が一番大きかったですか?
「前回インタビューしたときに陰謀論とか熱く話してたでしょ。あれも消えたわけじゃなくて、まだ残ってる、そういう世界っていう。でもそれが世界の全てかって言ったらそうじゃない。自然の中で人間社会っていうのは一部で、一対一の関係じゃないよね、明らかに」
これだけ露骨に目の前で『歴史』が作られて、それでなおかつシステムの方から”So, What are you gonna do?”(そんで、どうするって?)って突きつけられて、無力感に参ってる人っていうのは多いと思います。陰謀論にはそういう側面もあるじゃないですか。
「まあね。政治的な問題だとか、環境的な問題だとか、一通り吸収した上で、それでも何が言いたいのっていう部分は、決して正論じゃなくて、人間として『ふざけんな』っていう怒りとか感情的なものだったりするじゃない。その答えがどうとか言うんじゃなくて、感情は沢山あるんだけども、何か一つ乗り越えた部分が必要だなっていう、ことなんですよね。色々と物を考えながら生活していくだけでも、面白い発見をすることもあるし、その探求の行為を諦めたら、そのときは本当に駄目な人間になっちゃうと思う」
真吾君がmixiの日記でキング牧師の言葉を引用してましたよね。
「『あなたたちに伝えたいのは、命を賭けても良いと思えるものを見つけられなかったら、その人は生きる力を持たない、ということです』って訳ね。アメリカっていうのは本当に社会的に特殊な国であって、今は特殊な時代だと思うし、これだけ思想の自由が許されてるって言うのは素晴らしいことだと思うんだよね。やっぱりこれだけ文句言っても、素晴らしいことだと思う。色んな人がいて。どんな暴言吐いてもそれを吸収できる国じゃない。凄いよね」
さっきの陰謀論の話じゃないですけど、どんな暴言でも吸収しちゃうっていう仕組みが上の方でかちっと出来上がってると、末端で何をしてようが関係ないっていう絶望感の方が先に来ちゃうんですよね。こんだけ自由だと、逆に。
「でもそれはね、アメリカは、ほんとに経済的なシステムだから。だからこっちがそんなにお金の事を気にしなければ、精神的な部分では全然強くやってけると思うよ。そこの部分で、常に課税される事に挫けなければ。自分たちが経済的に利用されてコントロールされてるって思ったら、希望はないよ。政府が作ってるんだからお金は。彼らがルールを決めてるんだから。だからいいじゃん、自由で」
そんな感じで。ありがとうございました。
「こちらこそ」